「全然〜ない」の神話

 「全然」のあとは打消しの「ない」(や「駄目だ」「違う」などの表現)で必ず結ばなければならない、というのが一種の「迷信」「都市伝説」であったことは、今では、それなりに知られるようになった(これはもちろん、かつて「全然」は、打消しの「ない」とは共起しなかった、ということを意味するものではない)。
 飯間浩明三省堂国語辞典のひみつ』(三省堂2014)で飯間氏は、「ことばの「濡れ衣」と言えば、「全然」についての話を避けて通るわけにはいきません」(p.35)と述べ、『三国』の最新第七版で「全然」の項を書き改めたと記している。すなわち戦前から、「全然」は打消しや「ちがう・別だ」などの語が続いて「すこしも」という義をあらわしたほか、否定形などを伴わずに「完全に。すっかり」の義をもあらわしたということを明記したという。さらに飯間氏は、『三国』に「ほかとくらべて、断然」、「心配する必要がない、問題がない、ということをあらわす」といった「口語的な用法」も二つ追加した(p.37)。
 後者の「全然」=「心配する必要がない、問題がない、ということをあらわす」用法の『三国』七版での作例が、「『この服、変じゃないかな』『ううん、全然かわいいよ』」などというものだ。これは、加藤重広氏が、「否定の想定を打ち消す配慮の機能を持っ」た「全然」の用法として紹介していた例にあたる。

 面白いのは、最近の「全然」が否定の想定を打ち消す配慮の機能を持っている点である。若者から広まる新しいことばは、知らないことや誤解から生じる場合もあるが、むしろ新しい配慮のかたちの現れであることも少なくない。
 例えば、「全然おいしい」などは、最初から誰もがおいしいとわかっている場合には使わないのが普通である。「新しくできた〜ってレストランがおいしいって評判だから、早速食べに行ったんですが、やっぱり、すごくおいしくて感動してしまいましたよ」と言うときに、「すごく」の代わりに「全然」を使う人はまずいないだろう。一方で、「私がつくったんですが、おいしくないでしょ?」と言いながらすすめられたものを味見しているなら、「全然おいしいですよ」はうまく合致する。誰かが「おいしくない」と思っている状況で、それを打ち消して「全然おいしい」と相手に配慮するのが、さきほど述べた「否定の想定を打ち消す配慮」にあたる。(加藤重広『日本人も悩む日本語―ことばの誤用はなぜ生まれるのか?』朝日新書2014:162-63)

 また馬上駿兵氏は、次のように「全然ステキ」を〈「とってもステキ」という程度のことでしょう〉と解釈しているが、これも実際には、「否定の想定を打ち消す配慮の機能」のもとに使われる場合が多いであろう。

 第三版(1983年刊『広辞苑』第三版―引用者)には、肯定に使う「全然」が、「完全に。非常に」と説明されています*1が、この「完全に」と「非常に」には違いがあります。「完全に」というのは、『辞苑』以来の説明するところと一緒です。『大言海』も同じですね。けれども、「非常に」というのは、それらとは違って、単に程度を強調しているだけです。「全然ステキ」というのは、「完全にステキ」というところまで誉めているのではなくて、「とってもステキ」という程度のことでしょう。(馬上駿兵『文豪たちの「?」な言葉』新典社新書2014:30)

 そもそも「全然ステキ」の場合、その「全然」を「完全に」と置き換えること自体に無理があるとおもうのだが、ここで馬上氏が言っているのは、「全然〜肯定形」について、旧来の用法と後出の用法とには「ずれ」があるのではないか、ということである。
 これについては、先引の加藤氏だけではなく、たとえば石山茂利夫『今様こくご辞書』(読売新聞社1998)も、松井栄一(しげかず)氏の発言を引きつつ言及している。それを以下に引く(初出は1997年)。

 「全然」が、明治、大正期には肯定表現でも普通に使われていたことを、松井栄一さんが気づいたのは、『日本国語大辞典』編纂のための用例を採集していた時である。
「打ち消しを伴わないで『全然』を使用している例が少なからずあったんです。私は物心ついたころから、すでに、『全然』には打ち消しがつきものと思っていましたから、これにはびっくりしました」
 こんな使い方である。松井さんのカードから引用する。
〈過去は一切過去に葬つて、是から全然新生涯に入りたいと思ふ。〉(小栗風葉『青春』明治39年
〈此等の時代は自分にとつて全然満足すべき時代だつたかといへば・・・・〉(安部能成*2『自己の問題として見たる自然主義的思想』明治43年
〈其間に酔が全然醒めて了つて・・・・〉(石川啄木『病院の窓』明治44年
〈好色家が女がうるさいと云ふと、全然同じ事である。〉(森鷗外『灰燼』大正元年
〈これを見ると、下人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されてゐると云ふことを意識した。〉(芥川龍之介羅生門大正4年)……。
 例外とは言えない数の、こうした用例を前に、松井さんは考え込んでしまったが、どう考えても、結論は一つしかない。
「それまでの常識がおかしい、ということです。明治、大正のころは、いや、昭和の初めでさえも、『全然』は肯定表現、否定表現両方で使われていたが、どういうわけか、打ち消しや『だめ』などの否定的な語とセットで使う、という常識が出来上がってしまったんですね」
 この用例発掘の成果として、『日本国語大辞典』の「全然」の項に、
〈残るところなく。すべてにわたって。ことごとく。すっかり。全部。〉
の意味を加えた。今では、中型辞典のほとんどが載せているが、元来の用法を掲載した初の辞書という栄誉を担うのは『日国』である。
「打ち消しを伴うのは陳述副詞、戦後に『俗語』と批判される『全然面白い』といった使い方のものは、非常に、とてもの意味の程度副詞であるのに対し、(『日国』に)新しく加えたのは事態のあり方を示す情態副詞だと見ています」
 肯定表現で用いる、新旧の「全然」の副詞の種類については、学者によって見方が違うが、「俗語」に位置づけられる用法と伝統的な使い方との線引きは、だいたい一致している。(pp.120-21)

 やはり、ここに挙げられた用例は、「全然」をことごとく「完全に」と置き換えることが可能であるから、「誤用」「俗用」などと批判された「全然面白い」「全然ステキ」の「全然」とは意味を異にしていると考えるのが普通の感覚であろう。したがって松井氏は、それぞれを「情態副詞」「程度副詞」と見なして区別したというわけである。このことが、「全然」をめぐる議論をさらにややこしくしている。
 さて、「全然」の用法に関して詳細な分類を行っているのものとして、新野直哉『現代日本語における進行中の変化の研究―「誤用」「気づかない変化」を中心に―』(ひつじ書房2011)を挙げることが出来るだろう。
 新野氏の結論は、上に述べたような見解とは異なっている。
 所収論文で新野氏は、まず「“全然”+〈“ない(ねえ)”(形容詞、助動詞)or“ず(ん)”(助動詞)およびそれらの派生語(“なくす”“なくなる”など)〉」をのみ「“全然”+否定」と見なし、それ以外の表現を伴う場合をすべて「“全然”+肯定」と定義している(p.116)。
 そのうえで、「“全然”+肯定」について、「“全然”+ない」に意味的に近いと思われる順に「A〜E」という下位分類を設けている。簡単に述べておくと次の様である。A:「不」「無」「非」「未」「否」などの漢字を含む語を伴うもの,B:「反対」「別」「違う」「異なる」など二つ以上の事物の差異を表す表現を伴うもの,C:「削除す」「断つ」「嫌う」など否定的な意味の語句を伴うもの,D:「没」「失敗」「駄目」「幼稚」などマイナスの価値評価を表す語句を伴うもの,E:「全然」が明らかに否定的な意味やマイナス評価ではない語句を修飾しているもの。
 C・Dの判断基準は、Cが、(「好ましいもの」だけに限らず)「好ましくないもの」や「ニュートラルなもの」を「削除し」たり、「断っ」たりする場合があるのに対して、Dは語句自体がマイナスの価値評価を表しているかどうかによって決まる、ということになっている。しかしこれは、新野氏自身も認めるように線引きがやや曖昧なもので、判断がむつかしい場合もある。それに、むしろ「D」の方が、「C」よりも否定的な意味合いが強いのではないかという疑問もわく。
 とまれ、この分類基準のもと明治期以降の用例調査を行った結果、新野氏は次のように言う。

 Eでは、昭和戦前までの例のうち、「全然健康ニシテ」「全然有利」「全然その趣旨に賛成」は、「完全に」とも「とても」「非常に」とも置き換えることが可能であるが、やはりニュアンスは変わってくる。一方、現代の例では、「全然平気/大丈夫/OK/いい(〈かまわない〉の意)」は、〈とても、非常に〉の意とは考えられない。「とても平気」「非常に大丈夫」などとは言わない。〈完全に、100%〉の意味である。それ以外でも「子供の頃よりもう全然いい」「そのほうが全然早い」といった比較表現で使われている場合は、Dの場合同様、「とても」や「非常に」より「明らかに」「疑いなく」と置き換えた方が自然な文になる。(中略)
 こう見ていくと、今日の肯定を伴う“全然”が〈とても、非常に〉の意である、と判断するのはどう考えても無理がある。逆に、昭和戦前まででも現代でも、〈完全に、疑問の余地なく〉の意と解釈できない「“全然”+肯定」の例は1つもない、ということがいえる。(中略)
 昭和戦前まででも現代でも、肯定を伴う“全然”は(否定を伴う場合と同じく)〈完全に、100%、疑いなく〉の意で基本的に変わっていない。50%や60%ではなく100%なのであるから、結果的に被修飾語句の意味を強調することになり、したがって“とても”“非常に”と置き換えても文が成立する(ただしニュアンスは変わる)ような例も一部出てくる。(中略)それでは、なぜ(略)先行論文や辞書では「戦後・現代の肯定を伴う“全然”は〈非常に、とても〉の意だ」とされてきたのであろうか。
 それらにおいては、「“全然”+肯定」の例をもっぱら「全然おもしろい」「全然いいね」「全然おいしい」といった形で示してきた。これらの場合、作例であるうえに、“全然”とその被修飾語のみであって実際に使われる場面や前後の文脈から切り離された形になっている、という二重の問題点がある。(pp.133-37)

 つまり、戦前の例と、戦後に「誤用」「俗用」とされた例とには「連続性」があるという見解である。
 新野氏によれば、これまでの研究は「作例」主義に基いてきた。しかし、「実例」主義をとるならば、

「□□の方が(○○より/○○と比べたらetc.)全然××」という比較表現での例や、「全然平気」「全然大丈夫」など、“非常に”“とても”と置き換えられないものの方が多いことに気づくはずである。(p.137)

という。続けて、「同じ「全然いい」でも、〈良好である〉の意の“いい”と〈かまわない〉の意の“いい”とでは区別して考える必要があるが、先行文献ではそこもあいまいであった」(同)と述べる。
 以上の結論は、新野著の「第2部第1章」の根幹をなすもので、1997年に書かれた論文をベースにしている。次の「第2部第2章」は、2000年から2010年にかけて書かれた論文がもとになっており、近年の「全然」をめぐる研究史を概観することが出来る。それを読むと、ここ十数年で、「全然」に関する研究が大いに進展していることが知られる。
 そこで、さきにみた「否定の想定を打ち消す配慮の機能」をもつ「全然〜」の成立説をすこし紹介しておくことにする。
 当該の「全然〜」については、すでに横林宙世(1995)「そこが知りたい日本語何でも相談―「ぜんぜんおいしい」は間違いだけど、どう教える?」(「月刊日本語」8(6):50-51)が、「ぜんぜん(疲れていない)。大丈夫。平気」のように( )内だけを省いた表現だと解釈している(ア)*3。また、野田春美(2000)「「ぜんぜん」と肯定形の共起」(「計量国語学」22(5):169-82)は、「語自体が、悪い状態を否定する意味を持つ語」であると見ており、さらに葛金龍(2005)「「全然」の俗語的用法の発生」(「愛媛国文と教育」38:8-22)は、「全然平気」「全然OK」の「平気」や「OK」は「気にしない」「問題ない」の代用であると見ている(イ)。最後に、窪薗晴夫(2006)「若者ことばの言語構造」(「言語」35(3):52-59)は、たとえば「全然大丈夫」を、「全然問題ない」「まったく大丈夫」の同義文が混成された結果に生じたものとみている(ウ)。
 新野氏は、(ア)を「省略説」、(イ)を「否定内在説」、(ウ)を「混交説」と名づけ、「「混交説」は類例も多く、魅力的な説である」が、「筆者は「否定内在説」に最も惹かれる」(p.201)と述べている。また、「混交説」に関連して新野氏が紹介しているのが、尾谷昌則(2008)「アマルガム構文としての『「全然」+肯定』に関する語用論的分析」(児玉一宏・小山哲春編『言葉と認知のメカニズム―山梨正明教授還暦記念論文集』ひつじ書房:103-15)である。ここで尾谷氏は、

『「全然」+肯定』構文の語用論的意味は〈文脈想定の否定〉と〈肯定評価の表明〉という2つを同時に表意として伝達することである。そこで、〈文脈想定の否定〉は『「全然」+否定』構文から、〈肯定評価の表明〉は肯定構文からそれぞれ継承し、『「全然」+肯定』という一種のアマルガム構文が生み出されたと考えられる。(pp.111-12,新野著p.203から孫引き)

と述べ、「この料理、まずいでしょう?」と言われて「全然美味しいよ」と応じた場合について、「全然まずくないよ」から〈文脈想定の否定〉を、「美味しいよ」から〈肯定評価の表明〉を継承したものと解釈しているという。これも一種の「混交説」であるといえる。
 しかし、いずれの説をとるにせよ、「全然おいしい」「全然大丈夫」などは、「全然」のあとに否定形(ないし否定的表現)を伴わなければならない、という鞏固な「信仰」のもとに成立した、「いかにも戦後的な用法」ということができるのではないだろうか*4
 では、こういった都市伝説は、戦後のいつごろに成立したのであろうか。
 この問題についても、継続的に研究がなされているそうだが、まだ明確な結論は出ていない様である。
 それと併行して考えるべきなのは、「全然+肯定形」への非難がいつごろから見られるようになったか、ということである。
 この「全然+肯定形」が「言葉とがめ」の対象となるようになったのは、やはり戦後のことで、新野氏によると、「1953年に刊行された、『言語生活』18(1953.3)掲載の小堀杏奴のエッセイ「思ひ出」」が最初だといい、「その後同誌は翌1954(昭和29)年にかけ、「“全然”+肯定」を繰り返し取り上げている」(p.139)という*5
 さきの飯間氏は、「「『全然』〜否定形」は、伝統的どころか、特に戦後に一般化した用法と考えられます」(前掲p.36)と述べているけれども、その「発信源」がどこにあるかということに触れ得たものは管見の限りでは見当らない。
 ただし、辞書類で「最初に注記したのは、たぶん、研究社の『ローマ字で引く国語新辞典』(福原麟太郎・山岸徳平編 昭和27年)が最初ではないだろうか」(石山茂利夫『今様こくご辞書』:118)という。石山著から、当該辞書の語釈を間接に引くと、「1 全く.まるで(普通、下に打消を伴う)・・・・(例)全然見当がつかない.2 すっかり.全く.(前者のくずれた用法で、下に打消を伴わない).・・・・(例)全然間違っている.」と書かれているという。しかも、日本経済新聞社編『謎だらけの日本語』(日経プレミアシリーズ2013)によれば、同辞書は、「全然」を“not at all”と“wholly”とに対訳しているという(p.128,飛田良文氏の談話による)。
 つけ加えると、先引の加藤著は、

 明治後半から終戦くらいまで、おおむね二十世紀前半は、文法教育が確立していく時代でもあった。例えば、英文法なら、「at all は否定文で用いて否定を強める」、ドイツ語なら「gar は nicht の直前に置き、否定を強める」のように、否定の呼応規則として教授することも多かった。日本語でも、同じような文法規則があると想定されるようになり、 at all や gar の訳語に使うことも多かった「全然」に否定呼応規則のイメージが染み込んでいったと考えられる。
 実は、at all や gar も否定でのみ使うわけではないのだが、規則は単純なほうが教えやすく、習得しやすい。(pp.161-162)

と書いているから、「全然〜ない」の都市伝説は、外国語文法教授の場で生れたという見方を示しているといえる。
 ちなみに、手許の上田萬年『ローマ字びき國語辭典』(冨山房1915,1916年4月刊の第二十二版)で「全然」を引くと、「Zen-zen 全然 [副]まつたく.まるで.すつかり.すべて.――Entirely.」とあって、『ローマ字で引く国語新辞典』の記述とは大きく異なっている。
 また、「全然」に関してどうも気になるのが、戦中に出た淺野信『俗語の考察』(三省堂1943)における記述である。以下の如くある。

(「とても」は―引用者)下に否定の語を必ず將來せしめる筈のものであつた。尤も現今の用ゐざまでも、この主流に棹さすものもあるが、いづれかといへばその否定語を呼應せしめずに、たゞ副詞として單なる強調の詞となつてゐるのが通例である。大正末期から昭和にかけて、この用法の甚だしかつたために、大變な波瀾を捲き起したのであつたが、これらは、前記の如き例證はさておき
(2)九千貫……、とても、死んでは持つては行け、帳子一つで濟む事なり。―「西鶴・好色二代男」
(3)定めて申し出したる者はあるべけれども、とても仰せられ(る)まじ―「西鶴・武道傳來記」
(4)迚も御目にかくべきものに非れども、小生が嘗て夜間當直せしとき吟意の思ひ出る儘…―「廣瀬武夫書簡」(嘉納治五郎氏所藏)
これらの潮流の存する間に、すでに徳川前期にその呼應性を喪失しかけてゐたのであつた。(中略)
 …「とても」が餘りにその一語に感情の凝集が甚だしかつたために、その呼應性を振り棄てたのと反對に「決して」が下に否定の語を呼應せしめるに至つたことは面白い現象である。
 今日では「決して」は例外なく否定の語を應ぜしめて
(7)途中でどのやうなことがあらうと、決して歸つて來ないやうなことはありませ
となるが、少くとも明治以前は
(8)さて此書き樣筆法に斯く作りし氣象がうつれば、決して通圓が眞筆なり―「腋下幽人・茶道秘録」
の如きものがその本體であつたのである。今日これらの中間にあるものが「全然」であり「斷然」である。これらは前記語(ママ)の否定語に對して、半ば消極語をも取るのである。(pp.38-41)

 ここで淺野は、「全然」が、「否定の語を呼應せしめるに至」る中間過程にあると述べている。淺野著の本文には、「又これらとは全然別個のものであらうといふことにもなつたのである」(p.39)という記述も見えるが、こちらは「その本體」としての用法ということになろう。
 「全然〜ない」の都市伝説の成立については、「決して〜ない」などといった呼応関係の確立も視野に入れ、戦後の教育現場における証言などを精査したうえで、考察をすすめてゆく必要があろう。
【附記】(7.10記す)
 この記事に対して、某さんが興味ふかい説をご教示下さいました。以下に、そのメールの一部から引用させて頂きます。

 実は私、この「鞏固な『信仰』」という規範意識がことばの意味用法を変えてしまうことが本当にあるのだろうか、と思っています。
 当時の「全然」の意味や、「全然」の周辺の語彙体系(似た意味を表す副詞の体系など)の構造変化があって、「全然」の使える範囲はすでに狭くなっていたというようなことはないかな、と。
 (激しい妄想くらい根拠のない「例えば」なのですが)例えば「とても」が使える範囲の自由度が高まったことによって生まれた空白を埋める形で全然の意味が変わった、とか、それまで「否定の想定を打ち消す配慮の用法」を担っていた表現がなくなってしまったので、「全然」がその穴埋めをした、などのようにです。
 「実は規範意識や教育が全然の用法を狭めたのだ!」という最近のトレンドに逆行してしまいますが。
 オーソドックスな語史が好きだったので、「全然」にまつわる最近の規範意識原因説をホントかな、と思ってしまうのです。

三省堂国語辞典のひみつ

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文豪たちの「?」な言葉 (新典社新書 64)

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今様こくご辞書

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日本語矯めつ眇めつ―いまどきの辞書14種のことば探検

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*1:ただし馬上氏によると、『広辞苑』は第三版から、否定を伴わない「全然」の用法を「俗」だとする注記を加えたという(p.29)。

*2:石山著ママ。正しくは「安倍能成」。

*3:新野氏によると、小池清治氏もこれと同様の立場をとっているという。

*4:ちなみに、「全然」は中国の近世白話小説由来の語と考えられ、橋本行洋氏によれば、「白話小説ではほとんどが否定を伴」い、「幕末から明治前期にかけての戯作・小説では「すつぱり」「すつかり」「まるで」などの振り仮名付きで使われ、これらの和語の用法に牽引されて必ずしも否定は伴っていなかった」という(新野著p.166)。

*5:たとえば、石山茂利夫『日本語矯めつ眇めつ―いまどきの辞書14種のことば探検』(徳間書店1990)によれば、『言語生活』昭和二十九年三月号の「目」欄が、「ゼンゼン判る」という表現に対する「言葉とがめ」を載せているという(p.34)。