日本語の起源?

所用あって出掛ける。ちょっと時間があったので、Kで立読み。
海野弘『陰謀と幻想の大アジア』(平凡社)。海野氏の新刊だということもあって、手にとってみたら、「日本語の起源」について一章ぶん割かれていた。全部読む時間はなかったのだが、「日本は第二次世界大戦に敗れた後、大陸的想像力を失ってしまったのではないか」、というようなことが書かれていた。であるからこそ、「レプチャ語起源説」やら「タミル語起源説」やらが生み出されるようになったのではないか、と海野氏は述べている。大野晋『日本語の起源』の、新版と旧版の相違にもふれていたように思う。服部四郎『日本語の系統』については、「学問への姿勢に打たれる」と称讃している。
かつて私は、日本語の系統論や起源論に興味をもっていたので(今はべつの意味で興味を抱いているのだが)、そのテの本は、怪しげな内容のものも含めていくつか持っている。たとえば、飯野睦毅『奈良時代の日本語(やまとことば)を解読する』(東陽出版株式会社)、服部四郎『日本語の系統』(岩波文庫)、大野晋『日本語はどこからきたのか』(中公文庫)、澤田洋太郎『日本語形成の謎に迫る』(新泉社)、安本美典『新説! 日本人と日本語の起源』(宝島社新書)、大津栄一郎『日本語誕生論』(きんのくわがた社)、津田元一郎『日本語はどこから来たか』(人文書院)。最近出たものでは、工藤進『日本語はどこから生まれたか―「日本語」・「インド=ヨーロッパ語」同一起源説』(ベスト新書)。当然といえば当然といえるのかもしれないが、言語学者ではない人による「系統論」「起源論」が多い。しかも、「確信犯」(ここでは本来の意味)が多いのだからちょっと困る。まあ、いずれも読んでいておもしろく感じる部分があるにはあるのだが。
日本語誕生論
しかし、大津氏は「終わりに」で、「筆を置くに当って、改めて言っておきたいことはこれは学術の書ではないということである。私自身が苦労して集めた資料などはなにもないからである。資料はすべて孫引きで、そのため、これは想像の書である」(p.316)と書いている。これはこれで良心的だと言えるかもしれない*1
なお紀田順一郎氏は、『日本経済新聞』(2000.6.11付)の「今を読み解く」で大津氏のこの本を紹介しており、「日本語が『な』(なれ、なんじの語幹*2)『と』(戸、山門、瀬戸などの語幹)というような単音節からはじまり、それが複音節化する過程で日本語独自の表現力が加わってきたという実証部分は、きわめて説得的だ」と書いている。
そういえば、服部四郎で思い出したのだが、保阪正康『昭和史 忘れ得ぬ証言者たち』(講談社文庫)に収められた「服部四郎『人生、六十歳になって初めて考えたことがある』」(p.385-90)は感動的ですらあった。短い文章ではあるが、ここには、「学問に憑かれた人たちの素朴な表情」(p.389)が描かれている。

*1:しかし、「想像の書」であるのなら、『日本語誕生』という大仰な題名をつけるのはやめてほしい。

*2:これはふつう、「語根」と呼ばれるのではないだろうか。「語幹」は stem の訳語ではないのか。