軽率な軽卒

山口瞳「伝法水滸伝」を読み始めたはいいが、冒頭から気になる記述が。
「メ」で書くべき話題だが、こちらに載せる。

軽率という字が書けますか。ふつう軽率といえば、軽卒と書いてしまうでしょう。卒は兵士です。軽卒といえば身分の低い兵士の意味*1です。それが転ジテ軽はずみ、礼儀知らず、無思慮、オッチョコチョイ、軽挙妄動となったとも考えられますが、いま、私の手許にある昭和三十六年版『明解国語辞典』には軽率だけしか出ていません。金田一京助先生の監修ですが、金田一先生は国語改革論者なので、軽率と軽卒が同じ意味あいだとは考えられません。なぜなら、もし軽率と軽卒が同義ならば書きやすい、劃(ママ)のすくない、読み誤りの少ない軽卒の方を採用したはずです。軽率はケイリツと読まれるオソレがあります。卒は卒業という言葉でナジミが深く、音はソツしかありません。率はソツ、リツ、スイの三種があります。
こころみに、戦前の辞書である昭和十九年版の同じく三省堂発行『新訂版広辭(ママ)林』を見ますと、けいそつ【軽率・軽卒】(名)かろはずみ、となっています。従って、軽率・軽卒はある時期までは、どちらでもよいことになっていたのではないでしょうか。それが論義(ママ)をつくした末に、やはり軽率に落ちついたというような推移が考えられます。(集英社文庫所収「伝法水滸伝」,p.6)

「昭和三十六年版『明解国語辞典』」というのは、正確にいうと「改訂版」のはずである。そこで、初版の「昭和十八年版『明解国語辞典』」(覆刻版)を見たが、やはり「軽率」しか採録していない。また、「金田一京助先生の監修ですが」云々という記述は、金田一氏自身が内容にタッチしているわけではないためやや怪しいのだが、それよりも気になるのは『廣辭林』からの引用だ。私も新訂版(昭和二十七年)をもっているので、開いてみた。やはり、山口瞳が書いているとおりであった。ただし、「卒」を「兵卒」の意で用いる「軽卒」を別に立項している。つまり、「けいそつ【軽率・軽卒】」「けいそつ【軽卒】」の二語を採録しているわけである。
さて、『漢語大詞典(縮印本)』で「軽卒」を引くと、「軽装的兵卒」の意しか載せていない。また『大漢和辭典(修訂版)』で「軽卒」を引くと、「みがるにしたくした兵卒。輕装した兵卒」「そそつかしい事。輕率に同じ」と両義を挙げている。しかし興味ふかいのは、後者の用例として挙げているのが、村上函峯「答某生問讀書作文書」のみだということである。あるいは、日本国内に限って、「軽卒」を「軽率」の意で用いたのかもしれない。そう思って、小学館の『日本国語大辞典(第二版)』も引いてみたが、「軽率」と「軽卒」は明らかに区別されていた。
最近の国語辞典は、おおむね「軽率」のみ立て、「軽卒」は立てないようである。しかし、見坊豪紀三省堂国語辞典(第四版)』(平成四年)を引いてみたとき、ハッとした。「けいそつ【軽率・軽卒】(形動ダ)よく考えないでおこなうようすだ。かるはずみ」とあったのだ。しかし、見坊氏の没後に刊行された第五版(平成十三年)を引くと、語義説明は同じだが、表記が「けいそつ【軽率】」となっている。柴田武氏による序文に、「第五版では、標準的な表記を志向し」云々とあるのだが、それを反映させた結果なのであろうか。
機会があれば、もっと沢山の辞書を引いたり本を読んだりして考えてみたい問題ではある。
ところで映画を見たが、長くなってしまったので今日は書かない。

*1:その他に、「軽装の兵士」という意もある。