池辺三山

日露戦争 ―勝利のあとの誤算      文春新書
黒岩比佐子氏の『日露戦争 勝利のあとの誤算』(文春新書)は、同書を取り上げた「本よみうり堂」(2005.10.30)に、「関心の中心は、漱石朝日新聞に入社させたことで知られる池辺三山。」とあるように、池辺三山の評伝としても読める。私は特に、四迷、蘆花や漱石との交流を描いた部分を面白く読んだ。
徳富蘇峰、鳥居素川(大阪朝日新聞主筆。のち、大正日日新聞主筆)、城戸元亮(大阪毎日新聞社会長)、本山彦一(大阪毎日新聞社社長)、伊豆富人(熊本日日新聞社社長)はいずれも池辺と同郷、つまり熊本出身なのだが、いわゆる「新聞人」に熊本出身者が多いのは、薩摩藩に権力の中枢を掌握されていて、熊本人は野に下らざるを得なかったという事情にもよるかと思われる。
三山については、蘇峰が面白いことを語っている。『朝日新聞の記事にみる 追悼録〔明治〕』(朝日文庫)から引いておく。

池辺氏逝去の夜同邸に弔問せる徳富蘇峰氏に就て池辺氏に対する所感を叩く、共に肥後熊本より出て、新聞論壇に覇を称するの人、感慨殊に深きものあらん
『一昨日肥後人の集会が采女町の精養軒であつた、其席上で野田男爵は「熊本人には新聞記者が多くて、実業家が少い」と演説をしたが、其の後で私は演説して「新聞記者が多かつた……夫れは昔の話で、今は熊本人の新聞記者も沢山でない、誰よりも先に推された池辺三山君の如きは、我国で最も有力な朝日新聞に拠つて、最も有力なる新聞記者である、時には所見を異にして議論を上下したこともあるが仲間としては楽しむで居た一人である、其の人でさへ病気のために閑地に就くに至つたのは、新聞界のために殊に寂寥の感に堪へぬ」と云つた(pp.347-48,明治四十五年三月一日)

以下、面白い話がつづくのだけれども、長いので割愛。
この文庫では、三宅雪嶺の談話(p.351)や、黒岩氏の著作に引用されている漱石の「三山居士」も読めます(pp.352-54)。
また忘れてはなりませんが、三山居士の「二葉亭主人」も読めます(pp.253-55)。

而して余は君の船中の訃音を抱き君の母君と細君とに最後の絶望を告ぐるを以て君に対する最後の友誼と為さゞるを得ざるに至れり余の涙は紙上に墜つ杳々たるものは魂魄、長谷川君知る乎知らざる乎、君を紹介したる久松大尉は日露戦役に従ひて旅順に戦死し君は新聞通信員として職に死す命なるかな(p.255,明治四十二年五月十五日)