紅野謙介『物語 岩波書店百年史1 「教養」の誕生』(岩波書店2013)*1に、西島九州男のことがすこし出て来る。
西島九州男(一八九五−一九八一)は、飯田蛇笏に師事して俳句を学ぶかたわら、初めは法律や警察関係の出版を行っていた警眼社の校正係をしていた。やがて武者小路実篤に共感し、俳人仲間の川端茅舎とともに「新しき村」に参加し、三年間、農作業に従事するが、理想主義に破れて挫折。ふたたび出版界に戻り、『マルクス全集』や雑誌『解放』などを出していた大鐙閣に入り、校正主任をつとめた。震災により大鐙閣が解散になり、岩波書店の校正係募集を見て応募したのである。選考は野上豊一郎と安倍能成が担当していたという。最終的に岩波茂雄との面接をへて入社した。折りから岩波書店は、第三次『漱石全集』刊行に向けて準備を進めていた。もはや編集委員やその下請けに校正を依頼してはいられない。専属の店員を置いて校正の万全を期そうとしていたのである。やがて、西島は和田勇とともに岩波書店の校正という大きな看板を作り上げることになるのだが、その作業においても印刷会社との緊密な協力は不可欠だったのである。(p.254)
同書p.253には、西島の『校正夜話』(日本エディタースクール出版部1982)が紹介されているが、その本のなかの『漱石全集』に関する箇所が、高橋輝次編著『増補版 誤植読本』(ちくま文庫2013)に引かれている。
それによると、
第一次の全集では「漱石文法」というものを編集者――寺田寅彦、鈴木三重吉、森田草平、小宮豊隆などの主なお弟子たちですが――が制定して、漱石の特色は保存しながらも、それによって画一にならないように仮名遣いや送り仮名などを整理していく、というやりかたですね。この漱石門下生が編集から校正まで全部やったんです。この謄写版の「漱石文法」はたいへんよく出来ておりまして、以後岩波書店の校正の基準を定める上でたいへん参考にもなりました。(p.205)
ということなのだが、この「漱石文法」は、実質的には林原耕三が独りでつくったものだった、と林原が自著『漱石山房の人々』だか『漱石山房回顧・その他』だかで明かしていた。後者にはその稿本が収められている。いまは手許にないので、その具体例が確かめられないけれども、こちらに大略が挙げられている。
さて西島前掲には、漱石によるあて字もいくつか挙がっていて、「倦怠(けつたる)い」という例も出て来る(p.210)。しかし漱石自身は、「倦怠」を原稿で「惓怠」と記していたらしいことが、今野真二『消された漱石―明治の日本語の探し方』(笠間書院2008)pp.157-58で明らかにされている。どうやらこれが、「東京朝日新聞」紙上や単行本において「倦怠」と改変されたようなのである。
このことをもって今野先生は、「和訓(及び字形・字音)を媒介にして、日本における、単字を単位とした(倦、惓―引用者)両字通用の可能性がある」(p.158)と結論されている。もっとも、今野著も『正字通』に言及しながら述べていることではあるが、中国で「倦」「惓」が通用しなかったという訣ではない。たとえば冷玉龍ほか主編『中華字海』(中華書局ほか1994)を引くと、「惓」字の項の第二義に「同“倦”,疲乏」とあり、『無量壽經』の用例があがっている。
ちなみに、今野先生は近著『常識では読めない漢字―近代文学の原文を味わう』(すばる舎2013)において、『それから』の「倦怠(だる)そうな手から」という『消された漱石』の挙例と同じものを紹介されているが、「惓」字の問題については触れておられない(pp.55-58)。
また西島前掲には、「(漱石は)「あとじさり」のことを「あとびさり」とも書きます」(p.209)ともある*2。「あとじさり」「あとすざり」等のヴァリエイションに関しては、確か松井栄一先生が、『国語辞典にない言葉』(南雲堂)のなかで書かれていたと記憶する。
ついでながら、同一テクスト内に異形が混在する近年の例を挙げておく。
両腕を上げ、後じさる。(永瀬隼介『帝の毒薬』朝日新聞出版2012:410)
ソフト帽を飛ばして後ずさり、梶はひきつった顔で訴える。(同上p.458)
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*1:著者による「あとがき」末尾に、「最後に、三年前に亡くなられた黒岩比佐子さんに本書を捧げたい。本来ならば、彼女がこの巻を担当されるはずであった。『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』の著者であれば、もっと面白い百年史が出来たのではないか、読者のひとりとして、そう思うが、こればかりはどうしようもない。ご冥福をお祈りする」(p.310)とある。
*2:江戸期の川柳にも同形の語が出て来るようだ。この現象は、当然ながら「し」「ひ」の混淆とは解せない。ではどう解釈すべきなのか。単に「飛び去る」などとの混淆が生じたものか。あるいは、口蓋性を伴う歯/歯茎音が脣音に転じるというプロセスを経たものか(つまり、その口蓋性ゆえに口の両端が横に引かれ、両脣が接近したということ)。これとちょうど逆のプロセスであれば、越南漢字音の声母に生じているようだけれども……。