富田常雄の評伝

姿三四郎と富田常雄
よしだまさし姿三四郎富田常雄』(本の雑誌社)を読む(まだ途中)。富田常雄には、伊皿木恒雄(または恒夫)、日夏桓夫(「恒夫」ではない)、富田常次郎(これは富田の父の名前でもある)など様々のペンネームがあったそうだ。
富田が『柔』を東京新聞に連載していたとき担当編集者は安藤鶴夫だった、という話とそのときのエピソード(p.32)は、大村彦次郎『時代小説盛衰史』(筑摩書房)にも出て来る。しかし、大村氏の本にみえる「(富田は―引用者)関東大震災で柔道家の父の経営する赤坂溜池の東京体育倶楽部が焼失したので、学費を自弁しなければならなくなり、アルバイトの売文稼業に身を入れた。最初、講談社の『少年倶楽部』の許に、原稿を持ち込んだ」(p.326)という話が実は誇張であったことが、よしだ氏の本によって分った。
時代小説盛衰史
すなわち以下の如くである。「関東大震災よりも前に、富田常雄は小説を書いて小遣いを稼ぐことを始めていたのである。関東大震災によって経済的基盤を失った父から『あとは自分でなんとかしろ』と言われて、『それならもっと本気になって小説を書くぞ』と決意したかもしれないが、関東大震災が小説家になるきっかけだったというわけではなかったのだ」(『姿三四郎富田常雄』,p.82)。詳しくは同書をご覧下さい。
ところで、よしだ氏の本には「『姿三四郎』モデル問題」(pp.112-21)というのが収められてあって、姿三四郎のモデルは西郷四郎*1、矢野正五郎のモデルは嘉納治五郎、戸田雄次郎は富田常次郎……というふうにモデル探しを行っている。しかしこのなかに、三四郎の友人・真崎東天の名がみえない。私はその名前からして、宮崎滔天を連想してしまうのだが、如何であろう。宮崎は、西郷四郎と親交を結んでいた筈である。

*1:性格にはむしろ富田自身のそれが投影されているらしいので、「姿三四郎西郷四郎」と看做されることには富田自身もうんざりしていたそうである。