作品の冒頭

曇り。
最近、勢古浩爾氏が、『結論で読む人生論―トルストイから江原啓之まで』という本を出した。
その伝でゆけば、世には「冒頭で読む名作」というのもある、と言うことが出来るかもしれない。などと唐突な書き方をしたのは、阿刀田高『ことば遊びの楽しみ』(岩波新書)の「第一行でわかる名作」を読んだからなのだが、「名作」というのは、確かにその結末よりも、冒頭部のほうが有名だったりするものである*1
例えば、「木曾路はすべて山の中である」*2とか、「国境の長いトンネルを…」とか。これらは(「国境」を「こっきょう」と読むべきか「くにざかい」と読むべきかで問題になったりするのだけれど)、現在でも高校生クイズの定番かも知れない。小説以外だと、例えば「ヨーロッパに幽霊が出る――共産主義という幽霊である」*3大内兵衛向坂逸郎訳『共産党宣言』)など。
西日本(特に九州)で有名な「明林堂書店」のカバーは、この様な名作の冒頭がずらずら書かれたデザインのもの(色は、紺と緑の二種がある様だ)で、なかなか面白い。「きょう、ママンが死んだ」もあるし、「石炭をばはや積み果てつ」もある。「ゆく河の流れは絶えずして…」もあれば、「幼児(ママ)から父は、私によく、金閣のことを語った」もある。しかし、これだけ諸作品の冒頭部が無秩序に並べられたさまもなかなか壮観である。「冒頭の力」とでも言うべきだろうか。
阿刀田氏も前掲書で述べている如く、「作者にとって作品の第一行目は、かりそめのものではあるまい」(p.65)。「これから書く小説のアウトラインが決まり、だれを主人公にして、どんな調子で綴るか、きちんと決まっていないと筆は執れない。熟慮の結果であり、そうであればこそ、それをゆっくりながめると、第一行目に続く作品の全貌がほの見えてくる」(同)。

*1:それで思い出したのが、清水義範『日本語がもっと面白くなるパズルの本』(光文社文庫)の「例題付き『まえがき』」。清水氏は、『吾輩は猫である』の冒頭部を五人の作家の「語りクセ」によって書き分けている。いわゆる「パスティーシュ」であるが、これが「冒頭部」であることに注意したい。人口に膾炙した冒頭部を対象としているからこそ、面白さが倍増するわけである。

*2:「三十路はすべて闇の中」の「典拠」は何だろう、と思ったことがある。ご存じの方があれば御教示ください。

*3:冒頭部のドイツ語「Gespenst」を「幽霊」と訳すべきか「妖怪」と訳すべきか、という問題については、呉智英『言葉につける薬』(双葉文庫)の「幽霊か妖怪か」(pp.169-72)に詳しい。