十二月八日の小林少年

晴れ。
後輩の某さんが、小川環樹の血縁者であることを知って驚く。
「どういうひとか、あまり知らないのですが……」と彼女は言っていたが、私は、「タタタマキって、あのおお小川カンジュだよね! 均社を設立された先生ですよ、『新字源』の編者ですよ」と、ひとりで興奮していた。
ところで。未だ読み終わっていない佐藤卓己『メディア社会―現代を読み解く視点』(岩波新書)に、次のような記述が有る。
メディア社会―現代を読み解く視点 (岩波新書)

開戦以降、毎月八日の「大詔奉戴日」には宣戦詔書朗読の国民儀礼が繰り返されたはずである。
それにもかかわらず今日、一二月八日に「先の戦争」を思い起こす日本人は少ない。NHKの「戦争観に関する世論調査」(二〇〇〇年)は、「二月一一日・五月三日・八月一五日・九月一八日・一二月八日・わからない」から開戦日と終戦日を答えさせている。終戦日の正答率九一%に対して、開戦日はわずか三六%である。(pp.55-56)

小林信彦『イエスタデイ・ワンス・モア』(新潮文庫)を思い出さずにはおれない。

去年(昭和三十三年―引用者)の秋には皇太子妃が決まり、〈ミッチー・ブーム〉が起っていた。東京タワーが完成し、フラフープが流行した。FMの実験放送が始まっていた。都内の某中学で、「十二月八日は何の日か?」という問いに答えられたのが、四十五人中二人というのが話題になった。答えは〈太平洋戦争開戦の日〉だが、ぼくなら〈ジョン・レノンが殺された日〉と答えるところだ。(p.92)

約五十年まえには、すでに、「開戦日」が忘却の彼方にあったことが分る。
この小説は昭和から平成にかけて書かれたもので、作中の「ぼく」は平成元(1989)年の時点で十八歳なのだが(「ぼく」は三十年前、すなわち昭和三十四年の東京にタイムスリップするという設定)、彼は明らかに小林信彦の分身である。小林氏が、十八歳に「なったつもり」で書いているに過ぎない。
その約十五年後、小林氏は、ほかならぬ「小林信彦自身」としてこう回顧している。

東京少年
開戦後三年目の十二月八日は、よく晴れて、風が冷たかった。
その朝、ぼくたちは近くの国民学校の校庭に整列した。合同朝礼というもので、地元の教頭が妙にきんきんした声で開戦の詔勅を読み上げた。(略)
それにしても、勅語をきく雰囲気というのは、なぜあんなに笑いを誘うのだろうか。明治時代の教育勅語と新しい開戦の詔勅では、前者の方がおかしみを感じる度合いが多かった。教育勅語の方が耳馴れていることと、読み上げる時間がずっと長いからだろう。東京の学校にいたころは、「夫婦、相和シ」(夫婦は鰯)や「恭倹オノレヲ持シ」(狂犬おのれを噛み)の部分になると、ぼくはおかしくて仕方がなかった。つまり、明治天皇勅語を、じゅげむのように聞いていたのだ。
その点、開戦の詔勅は、新しいパンツのように、ぼくたちをしゃんとさせるものがあった。やや、はき心地が悪かったが、つい三年前にできたばかりだし、内容が切実なだけに、不謹慎な気持をおこさせることが少なかった。(小林信彦東京少年』新潮社,pp.101-02)