格差論争

晴。夜八時ころまで大学。
論争 格差社会 (文春新書)
文春新書編集部編『論争 格差社会』(文春新書)を読み始める。新刊案内だかで書名を初めて目にしたとき、中公新書ラクレの一冊かと思ったものだ。というのは、中公新書ラクレの記念すべき第一冊にして「論争」シリーズの第一巻*1が、『論争・中流崩壊』であったからである。つまり、これは(あえて大袈裟な言い方をすれば)中公新書ラクレなりの「原点回帰」なのだろうか、と思ったのである(その本は、『論争 格差社会』と同じように、巻頭に論争の系譜というか経過が掲げてある)。
「なんとか格差」なるものが頻繁に取り沙汰されるようになったのは、だいたい六年前の二〇〇〇年とみてよく、同年には佐藤俊樹の『不平等社会日本』(中公新書)も出ている。その翌年、苅谷剛彦『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会インセンティブ・ディバイド)へ』(有信堂)が出て、もはや「機会格差」だけではなく、「意欲格差」という問題が生じていることに衝撃を受けたものであった。すなわち以下の如くである。

階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ
いずれにしても、教育改革の影響も受けつつ、見えにくくなったインセンティブ構造の変化が、社会階層によって異なる学習意欲をつくりだす一因となっていることは十分推測できる。インセンティブへの反応において、社会階層による差異が拡大しているのである。インセンティブへの反応の違いが教育における不平等、さらにはその帰結としての社会における不平等を拡大するしくみ―インセンティブ・ディバイドの作動である。
それだけではない。インセンティブが見えにくくなることは、学校での成功から降りてしまう、相対的に階層の低いグループの子どもたちにとって、あえて降りることが自己の有能感を高めるはたらきをももつようになっている。(p.219)

さらにその三年後、つまり一昨年には、「希望格差」というのが話題となった(山田昌弘希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』筑摩書房)。そういえば、「性愛格差」なんてのもあったっけ。
しかし「なんとか格差」というのは、ずっと以前から国民の関心事だったようで、例えば、塩田丸男『辞書にでていない言葉の雑学事典』(文春文庫,1989←1978毎日新聞社)の「ジニ係数」項には次のようにある*2

官民格差だとか男女格差だとか、社会の不公平、不平等がしきりに糾弾されている最近の日本だが、実をいうと、いまの日本ぐらい均質化された(つまり平等的なということだ)国は世界中にない。少なくとも経済的にはそうである。(中略)戦前の日本と比べてみても、戦後は貧富の格差がなくなったことに気付くはずである。また、生活実感からいっても、独身貴族などといわれるように若いヒラ社員のほうが上役より金回りがよかったりして、上下の格差が急速になくなりつつある。それにもかかわらず、国民の間にこんなにも不平等感が強いのはなぜだろうか。(p.78)

「格差」のない社会ほど、わずかな差異を捉えて「なんとか格差」だ、と騒ぎ立てたくなるのではないか、という気がしてきた(もちろん、なかには実在する「格差」もあるのだろうが、あることないことを「格差」に仕立て上げて批判することで、さらに混乱を招いたようにも思う。そのために、「格差」とは何ぞや、という新たな定義づけから始めなければならなくなったのではないか)。
まあしかし、「勝ち組」だの「負け組」だのと仰々しい言い方がなされると、議論が百出するのはあたりまえなので、「まるきん」「まるビ」(第一回流行語・新語大賞金賞受賞)などと云いながら、「まるきん」になろうとして背伸びする「まるビ」を微笑ましく見守っているうちはまだよかった(のだと思う)。なるほど、渡辺和博とタラコプロダクション『金魂巻』(主婦の友社)は、たしかに呉智英氏がいうように、「一億総中流化が、幻想ではなく、現実であること」(『バカにつける薬』双葉文庫,p.17)を見せつけたものであったかも知れない(呉氏は、そのために左翼からの批判を招いたのだとする)。だが、読みようによっては、「中流」というよりはむしろ「中流」志向の「下流」=「まるビ」が存在することをそれとなく示してみせたようにも見えてくるのである*3。それゆえ、「上流」と「中流に安住しようとする下流」もしくは「中流」という精神的な二極化は、すでにそれ以前から始まっていたとも思われるのである。
しかし、この「中流」志向という精神的基盤が失われると―その検証方法に賛否両論あるとしても―、とにかく、意欲さえも失って、「下流」に安住する人々のつくる「下流社会」(三浦展下流社会 新たな下層社会の出現』光文社新書)というものが現出するわけである(仲正昌樹氏は、『論争 格差社会』所収の「『規制緩和』と『格差拡大』は無関係だ」で、「下流化」の定義すら曖昧な論者を痛烈に批判している)。
さて、『論争・中流崩壊』の「『論争』を交通整理する」(『中央公論』編集部)には以下のようにある。
論争・中流崩壊 (中公新書ラクレ)

中央公論』は二〇〇〇年五月号で「『中流』崩壊」を特集しました。これが思いもかけぬ大反響を呼ぶことになりました。
面白いことに、『文藝春秋』もたまたま同じ五月号で「〈衝撃レポート〉新・階級社会ニッポン」という記事を掲載し*4、以後「中流が崩壊してしまったのではないか」あるいは「新しい階級社会が到来するのか」という論議が新聞・雑誌を賑わせたことは記憶に新しいところです。本書が「論争」と銘打っているように、それはまさしく議論百出でした。(p.4)

その企画が成功したのか、以後、「論争」本は中公新書ラクレのひとつの柱となってゆく。ただ、この本は六年前に出たということもあり、いかんせん情報が古い。だから、『論争 格差社会』はその後の展開を知るのに便利である。大竹文雄佐藤俊樹など、『中流崩壊』『格差社会』の両方に論考が載っている論者もあり、読み比べてみると面白い。
ブームの火付け役となった(?)『中央公論』『文藝春秋』などの総合雑誌が、同じテーマで「新書」を出したのは興味ふかいところであるが、「新書」という形態の本が、いわゆる「下流社会論」などを人口に膾炙せしめるに至った、という小谷野敦氏の次のような意見もまた面白い。

しかし雇用政策について経済学的に詳しい議論をしたなら、それは新書版で出して売れるような本にはならないだろう。不平等社会論とか『下流社会』とか、それを広めたのは新書版である。玄田その他対本田その他のニート論争(?)なるものは、単に新書戦争の副産物に過ぎないのかもしれない。(「『下等遊民』のイデアルテュプス」p.149,『論争 格差社会』所収)

*1:そんなくくりはないのだが、中公新書ラクレからは、『論争・東大崩壊』とか『論争・長嶋茂雄』とか『論争・学力崩壊』(2003年版もある)とか、書名に「論争」の付くものが何冊も出ている。

*2:因みに、日本の家計全体でみた「ジニ係数」(所得不平等度)が上昇しつづけていることについて、大竹文雄氏は、世帯主が高齢化してきたからで、それと連動した変化であるという解釈を与えている(世帯主年齢階級別のジニ係数は安定的に推移していて、これは同じ年齢内における所得格差は今も昔もあまり変わっていないことを示しているのだという)。大竹氏は、『論争・中流崩壊』から一貫してこの立場にたっている。

*3:その「まえがき」には、以下のようにある。「かつてのまるビは、健気な庶民としてやりくりをつけ、清く正しく生きていたものを、現代では見栄のまるビがノーマルになり、自覚がなくなってしまった」(p.3)。なお、「まるきん」「まるビ」は、『金魂巻』が元祖なのではなく、渡辺氏自身、『コピーライターズ・スペシャル』(誠文堂新光社)誌上でこころみたことがあるのだという(「あとがき」p.300)。

*4:この記事は、『論争・中流崩壊』に収めてある。