「阿佐ヶ谷会」のことなど


沖縄風書体、そしてインド風書体、である。
そうすると、左はアイヌ風(たとえばアイヌ民族博物館のロゴ?参照)、右は大正ロマン風(こちらを参照)、ということになるのだろうか。役割語金水敏先生)ならぬ、役割文字(書体)の存在を感じさせる。
◆「阿佐ヶ谷会」(阿佐ヶ谷将棋会)といえば、ごく最近よんだのが*1青柳いづみこ『青柳瑞穂の生涯――真贋のあわいに』(平凡社ライブラリー)所収「阿佐ヶ谷会」(pp.149-76)であった。ここには、浅見淵「『阿佐ヶ谷会』の縁起」(未読)、井伏鱒二荻窪風土記』(これも未読)、木山捷平『酔いざめ日記』および「阿佐ヶ谷会雑記」などが引かれているのだが、たとえば次のような一節が気になったりする。
青柳瑞穂の生涯 真贋のあわいに (平凡社ライブラリー) [ 青柳いづみこ ]

戦後の阿佐ヶ谷会はほぼ毎回瑞穂の家で開かれたが、戦前はまちまちで、阿佐ヶ谷会の碁会所や支那料理屋ピノチオ、瑞穂の家で将棋をさし、二次会はピノチオで飲むというパターンが多かった。ジャーナリズムに注目されるようになったのも戦後のことで、それ以前は各会員の回想や新聞・雑誌に書いた記事から時期を特定するほかはない。とりわけ、昭和七年以降の日記が公開されている木山の『酔いざめ日記』は貴重な資料となる。(p.151)

小田嶽夫「阿佐ヶ谷将棋会」(文藝春秋編『「待った」をした頃――将棋八十一話』文春文庫1988所収)には、「阿佐ヶ谷会」と「阿佐ヶ谷将棋会」の違いについて書いてある。

阿佐ヶ谷将棋会の後身が「阿佐ヶ谷会」で、将棋会の頃の二字会が独立した会になったのである。戦後からはじまったように記憶しているが、或いは、名前は無かったにせよ戦争中にすでにあったような気もする。会場はいつも青柳家であったが、青柳は一昨年(昭和四十六年―引用者)死亡し、そのため昨年はじめて会場を或る料亭に移してこの会を行ったが、その日を限りとして阿佐ヶ谷会を解散したのであった。(p.327)

なお、昭和十五年十二月六日(のみ?)の「阿佐ヶ谷将棋会」は、“阿佐ヶ谷文藝懇話会”と改名されたらしい(「国民生活新体制要綱」の影響があるとかないとか)。
◆もう何年か前の話になるが、小沼丹『小さな手袋』(小澤書店1976)所収「木山さんのこと」(pp.144-46)に書いてあることを、木山捷平『酔いざめ日記』(講談社1975)の記述とつき合わせながら読んでみたことがあった。
たとえば――、

戰後三、四年經つたころだつたと思ふが、木山さんは西荻窪の南口の八百屋の二階に獨りで下宿してゐた。遊びに來い、と云はれて友人の吉岡達夫と二人で訪ねたことがある。(「木山さんのこと」)

これは、『酔いざめ日記』に、

昭和二十四年四月十三日、水、晴夜雨。
…階下では、八百屋開業の為大工仕事をやっていた。

とあるから、それ以降のことだと知れるが、正確な日時まではちょっと特定できない。また、

その后暫くして、木山さんが引越したから遊びに來いと云ふので、再び吉岡と一緒に出掛けて行つた。(略)ここでも、僕は木山さんと將棋を指した。木山さんは短いシガレツト・ホルダアに烟草を插して吸ひながら長考する。(「木山さんのこと」)

とあるのは、あるいは「昭和二十九年五月二日」の出来事ではないか、と考えられる。
『酔いざめ日記』には、

吉岡君訪問。アメリカより来たという赤い葉の木をもらった。小沼君訪問碁を二番。家に帰りてから井伏氏訪問、小沼、吉岡両君にさそわれて行く。河盛氏外先客数人あり。酔って十二時すぎ辞去した。

と書いてある。
なお、小沼丹は、

多分、このころ(「木山捷平を励ます会」が開催された頃、『酔いざめ日記』によれば昭和二十七年八月十日―引用者)からだと思ふが、木山さんは碁を覺えて、將棋はそつちのけで碁に熱中した。(「木山さんのこと」)

と書いているが、『酔いざめ日記』を読むとそんなことはない、碁をうつ一方で、将棋もさしている。
◆『朝日新聞』の「○○は終わらない」シリーズ、松本清張山田風太郎についての記事は切り取って持っているのだが、「升田幸三は終わらない」は切り抜いておくのをすっかり忘れていた。

*1:幻戯書房の『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』は未見。