来嶋靖生編『岩本素白随筆集―東海道品川宿』(ウェッジ文庫)。店頭平積みになっている状態で、表紙をはじめて目にしたとき、中公文庫BIBLIOに見えた。
岩本素白の随筆集が文庫でよめるとは、なんと贅沢な時代であろうか。
(げす)、(ごす)、(がす)などと云う言葉は、いやみな言葉である。然しずっと後年になって、元身分も高く学者でもある江戸ッ子の中老人が(宜うごすか)と云ったのを聞いたことがあったが、流石にげす、がすをその人からは聞かなかった。今一つ、仕ると云う言葉がこの時代(明治二十年から二十六年頃―引用者)の私の耳に残っている。(中略)その仕ると云う言葉は、今なら(どうしましょうか)とか、(どう致しましょうか)と云うべきところを、(どう仕りましょう)と云い、(どう致しまして)と云うべきところを、(どう仕りまして)と云うのである。これは別に下卑た言葉ではなく丁寧いんぎんな言葉なのだが、私には耳立って聞えた。そういう言葉を何時も遣っていた人は、何を商売にしているのか知らないが、始終やわらかものを着て肥って黒あばたのある六十程の爺さんで、その頃、或はその少し前に流行ったらしいラッコの皮の縁無し帽子を冠っていた。それは俗に味噌こし帽子などとも云い、尾崎紅葉を中心にした硯友社の人々が、揃いでこの型の帽子を冠っている写真を見たことがある(尤もそれらの人々のはラッコではなくて琥珀という裂れで造った物らしい)。
(「東海道品川宿(二)」p.42)
こういう言葉にかんする記述も楽しければ、 p.56 とか p.197 とかの如く、書物について語るときに、その手触りや表紙の色まで伝えてくれるのもまた楽しい。
<岩本素白の文章は決して華やかではないが、はやくから具眼の士に愛され、敬われてきた。背景にあるのは都会人の高雅な品格と教養であり、そこに生まれるのは繊細な感性とゆたかな学識に裏打ちされた丈高い文体である>(pp.232-33)とは、来嶋氏の言(「解説」より)。
ウェッジ文庫には、こういう渋めのオリジナル随筆集を、少しでも多く出してもらいたい。シリーズ化してくれないかな。
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森銑三の文章を引いておく。
岩本(素白―引用者)翁のことを思うと、それだけで、心の澄んで来るのを覚える。伊藤(正雄―引用者)氏は、沼波(瓊音―引用者)先生を「動の人」とし、岩本翁をもって「静の人」とする。そして「文章も、前者のそれが火山の如く烈しいのに対して、後者のそれは渓流の如く清らかである」といい、「しかしながら感情が純粋で、極端に潔癖で、俗臭を厭ふ念の本能的に強かつた点では、両先生とも相通ずるところがあつたやうに思はれる」と言う。私にしても同感である。
岩本翁は早稲田の出身であったから、長い間早稲田大学に教鞭を執られた。それは当然のことだったともいわれようが、早稲田には、野武士型とでもいうべき伝統精神の存するものがあった。会津八一さんなどは、正しくその代表といってよかろうかと思われるが、そうした先生方のいる早稲田に、岩本翁のような、別箇の持主もいられたことを思うと、それがいかにも快く感ぜられる。そして私などには、一人の岩本素白翁のあることによって、早稲田大学そのものが、内容のある学校として、好感が持たれもしたことだった。
(森銑三『史伝閑歩』中公文庫所収「沼波瓊音・岩本素白の面影」pp.107-08)