初めてH書店に行く

■以前から気になっていたH書店に行く。均一台も出ておらず、外からみると店内は真っ暗のようで、開いているのか閉まっているのか分からない。一時は諦めて帰ろうとしたくらいだった。正面にはボロボロの硝子戸。左側は締め切りになっていて、右側からしか出入りできないようだ。そこから中を覗いてみようとするが、補修済みの跡がたくさんあるので、本棚らしきものがちらちらと辛うじて見えるだけ。おそるおそる戸を引いてみると、ガタピシとひどい音を立てながら開いた。どうやら営業時間らしい。ちょうど正面に奥座敷が見えた。お婆さんがひとり、ちょこなんと坐っている。目が合うと、「いらっしゃい」と声を掛けられた。次いで目にとびこんできたのは、右に左にうねりながら聳え立つ本の山脈。道理で店内が暗いはずだ(もちろん、明かりは点いていたのだが)。しかも、クレゾールにアンモニアの混ざりあったような独特の臭気が漂っている。汲み取り式かしら、と余計なことを考える。また、強烈なデ・ジャ・ヴュにおそわれて、それは店を出るまで消えなかった。
店内にはまず、左右に大きな木製の本棚が設えてあり、空間をふたつに仕切る形で中央にも本棚が二本、背中合わせにならんでいる。つまり通路は「コ」の字形になっている。というのは実は見せかけで、店の正面から向かって左手奥にも、狭い通路をはさんで、もうひとつ別の本棚*1が置いてある。したがって、本来は通路が「ヨ」の字形になっているはずだった。「はずだった」というのは、そこここに乱雑に積まれた本の山が、左奥の通路への行く手を阻んでいたからである。先にも述べたように、左側の出入り口は締め切りになっている。だから、その奥のほうへは立ち入ることができない。そこにあるのはみな“死蔵本”ということになる。
改めて商品を物色する。小山慶太『物理学の広場』もあれば、山口敏太郎『本当にいる日本の「未知生物」案内』もある。宮崎市定科挙』もあれば、永井龍男『東京の横丁』もある。二玄社の書道本もあるし、福富太郎『昭和キャバレー秘史』の単行本もある。比較的新しいところでは、森まゆみ彰義隊遺聞』(新潮文庫)も在ったから、いちおう棚は動いているようだった。
しかし店が面する大通りは、車の往来がけっこう激しくて、残念ながらひどく煤けてしまっている本も多い。それでも欲しい本はいろいろと見つかって、稲垣吉彦『気になることば』(三省堂新書)H.G.ウェルズ 下田直春訳『世界文化小史』(角川文庫)河西善三郎『漢字に学ぶ―その成り立ち、その面白味』(関西ジャーナル社)松本清張『半生の記』(新潮文庫を抜いた。『半生の記』は好きな清張本*2であるだけに、「カバ違い」であれば買う。『漢字に学ぶ』『半生の記』は、裏表紙を捲ったところに、それぞれ鉛筆書きで「300」「100」とあるのだが、その他の本には価格表示がどこにもない。というかむしろ、価格表示のある本が少ないようだ。それでも、この値づけからすれば四冊で大体千円くらいだろうと踏んでいたら、お婆さんに「650円です」と告げられて、ちょっと慌てた。他に買いたい本もあったので、もう少し見せて頂きますと言うと、ごゆっくりどうぞとの返事。本棚の前に積まれた本の山のせいで、座敷にあがらなければ背表紙すら見えない本もあったので、ちょっと上がって拝見してもよろしいですかと訊ねると、「どうぞどうぞ。もし見にくければ、重なっている本を引っ張って除けてもらっても構いませんよ」。しかし、本棚の下半分は、もう完全に埋もれてしまっていて、ちょっとやそっと本を取り除けたくらいでは、とても見られるものではない。
しばらく店内をウロウロして(ウロウロするほどスペースの余裕はないのだが)、藤森善貢『本をつくる者の心―造本四十年』(日本エディタースクール吉野裕子*3『隠された神々』(講談社現代新書獅子文六『愚者の楽園』(角川書店を選び、店番のお婆さんに手渡す(そもそもこの店には、レジや電卓がなかった)。どの本にも値段は書かれていなかった。でも、まあ三千円とか四千円とかにはならないだろう、高くてもせいぜい二千円くらいかな、と考えていると、お婆さんがやおら値段の計算をしはじめた。どうやら奥付をみて、値段を決めているらしかった。吉野本は150円、藤森本は200円……と、そこでふと手が止まった。「こちらの本(獅子文六『愚者の楽園』のこと)は初版で函も付いておりますし、骨董本という扱いになりますから……」。もしかしたら、相当高い金額が飛び出すのではないか、とおおいに焦った。がしかし、その次の言葉にガクッとなった。「……申しわけないのですが、これは一冊で400円です」。
店を出てから、その店が、夢のなかに出てきた古本屋の雰囲気にソックリだった――ということにおもい至った。

*1:そちらには古い全集・叢書の端本類が並べられていたようにも見えたが、今回はちゃんと確認することができなかった。

*2:今年は清張生誕百年、清張については改めて何か書きたい。

*3:吉野氏が亡くなったことは、昨夏『山の神』の奥付で実は知った。