たまには漢字の話を

■いわゆる「倉頡(蒼頡)漢字創造神話」の、「倉頡(蒼頡)」の命名由来について書かれたものでは、

倉頡という名まえの「倉」は、創造の創に当てた字である。(略)また「頡」という字の右は、顔・頭などの字にも含まれる「頁」という形で、これは(略)「あたま」を表した字である。また左がわの「吉」は物を詰めこんだツボの口をかたく結んでとじることを表している。(略)してみると、頡は「知恵をかっちりとつめこんだ頭」「物しり」という意味であることがわかる。要するに「倉頡」とは、創造性のある知恵者のことであって、実在した個人の名まえではない。文字の元祖に仕立てあげた架空の人物なのである。
藤堂明保『中国の歴史と故事』旺文社文庫S.60,pp.9-10)

というのが、たぶん最も有名で*1、そのほかにも、武田雅哉蒼頡たちの宴―漢字の神話とユートピア』(ちくま学芸文庫)で紹介されている、「『創契』(創も契も刻みつける意味)に由来する」という説とか、「蹌蹌」や「屹」字に関連させる説(これは貝塚茂樹説)とかいろいろあるが、「タングート」音訳説というのははじめて見かけた。ま、まさか、「タングート」とは…。

文字を蒼頡が作つたなどは、宜い加減の傳説に過ぎない。蒼頡の名は、始めて*2戰國時代の學者荀卿が著した荀子といふ書に出て居る。其の文句は『書を作る者一人に非ず、而して蒼頡獨り傳ふるものは專なればなり』とある。文字が一人の創思に出でざることは明白である。吾人の考では、蒼頡はタンクツトの音譯で、一民族の名であるらしい。タンクツト民族は、今も猶西藏地方の山奥に住んで居るさうである。蒼頡黄帝の史官だなどいふのは、五十音が五十猛命の發明だといふのと一對の揑造傳説に過ぎない。
樋口銅牛述「支那書道史要」『晋唐名法帖』雄山閣S.8、p.4)

銅牛のこの説は、生前に出た『漢字雜話』(郁文舎M.43)には見えない。
ちなみにこの銅牛先生、『漢字雜話』の序文を内藤湖南に依頼しておきながら、「新進篤學の人」と書かれた(しかも、銅牛と面識のないことが頻りに強調されている)のが少々気にさわったのか、「今此序文(湖南の序文―引用者)を讀むに、君は金石の學には通じながら、小學には餘り深からざる者の如し。夫れ聲韻を離れて字形の説くべからざるは豈君の辯ずるを待たむや」と応酬していて面白い(おっかない)。
彼は古文を重んじるものの、「楷書は現今一般の通用字體で、古篆復古といふ事が馬鹿氣切つた痴人の夢想である」とか、「文字を正しく知るといふ事と正しく書くといふ事は自づから別問題であらうではないか。現代に行はれて居る字體は楷書の一體である。又一體で澤山である」とか、「木に從ふ字の中畫の下端を挑(ハ)ねてはならぬといふのは木の直根の象形だからといふのであらうが、取るに足らぬ愚説ぢや。筆勢で挑ぬるに何の差支があらう」とか、現代でも通用するようなことも述べている(音義説批判もある)。
銅牛樋口勇夫の、たぶん最も詳しい伝記は「君は『樋口銅牛』を知っているか?」(書道雑話9)
文字の骨組み―字体/甲骨文から常用漢字まで
■「來」字について。
大熊肇『文字の骨組み―字体/甲骨文から常用漢字まで』(彩雲出版)に、漱石が「通用体(常用漢字の「来」と同じ)を行書で書いた形」が出て来る(p.73)。
すなわち「来」の点を横棒一画で書く方式。
七十代の人たち(いわゆる「文部省活字」世代)が学校で習った字形は、「來」である(同前,pp.95-96)。
しかし、特に書簡文は、たとえば天隨久保得二が「行書もて書くが最も善からむ」(『新體實用書翰文』文王閣M.42,p.47)と書いていたように、伝統的には行書で書かれることが多かったようだ。そして、ごく最近までこの伝統は生きていたらしい。

左は島耕二『東京のヒロイン』(1950、新東宝)、右は大島渚『絞死刑』(1968、ATG)から。

斎藤寅次郎『ハワイ珍道中』(1954、新東宝)のこの「来」は、横断幕に書かれた文字である。

*1:駒田信二も、この本の「藤堂さんと私―解説にかえて」で「このことは彼の生前にも聞いたことがあり読んだこともあるのだが」(p.314)、と書いていることだし。

*2:「始めて」というのは正確でないのだが、ここでは縷々述べない。