■三月某日。晴。清張作品に限定したオリジナルの選集本(六巻)が来月から新潮社で出ると聞いた。選者は、宮部みゆきはもちろん、海堂尊や、確か佐藤優も。
また、山田詠美による日本文学秀作選(文春文庫)が、来月ついに出ることを知ったので(浅田次郎の選集が出て以来、四年ぶりである)、宮本輝による選集本を見直す。宮本氏が鏡花の「外科室」を選んでいたことは、初読の際にちょっと驚いたものだが、鏡花の文章にも、時々無性に読み返したくなる一種の「中毒性」がある。
鏡花といえば、冒頭からガツンとやられる三島由紀夫/澁澤龍彦の「鏡花の魅力」(『三島由紀夫おぼえがき』所収、もと「日本の文学」第四巻附録)が素晴らしい。三島は、「縷紅新草」を「神仙の作品」だと称揚していて、芝居で挙げていたのは「山吹」だった。
僕は「春昼」を澁澤の紹介によって知り、これは「春昼後刻」と共に岩波文庫版(解説が川村二郎で、「春昼」は川村氏が「再発見」した、という趣旨のことを小谷野先生が近著で書かれている―附記)で読んだのだが、澁澤が「気持ち悪い」と言っていた「酸漿」は、読みたいとおもいながらも今に至るまで未読である。
「草迷宮」は、寺山修司の変な映画を観たあとに読んだが(稲生物怪録の関連作品とはつゆ知らず)、寺山作品の重要なキーワードでもある「かくれんぼ」の情景のある「竜潭譚」には、高校生のころ一時かぶれ、同じく一夜にして淵となった村をモチーフにした習作を書いてみようとした事があった。おお恥かしい。しかしあの、一面に咲いた躑躅の花の鮮烈なイメージは全く古びない。鏡花の視覚に愬えかけてくる描写が、好きだ。
対談形式の「鏡花の魅力」に較べると、かなり抽象的な文章になるが、柳田國男「這箇鏡花観」(ちくま文庫「文豪怪談傑作選」の柳田國男の巻にも入っている)もいい。柳田の「こんな現代にもまだ詩があるかと心付く」という評は有名で、篠田一士が「すばる」で引用したのを、さらに浅見淵が紹介していて(『新編 燈火頰杖』所収)、他にもどこかで言及されているのを見たことがある。
■三月某日。陰。「でも、やっぱり新譜が売れてほしいでしょ」という某レコード店員の本音を、偶然立聞きしてしまう。そりゃそうだろな。確かに新譜は、高いことが多いので、僕だってほとんど買わない(買えない)。僕はクラシック歴がせいぜい十五、六年程度なので、その限りにおいて言うと、おもい当る例外は、十数年前にサイモン・ラトルのマーラー四番がレコ藝周辺でそこそこ話題になったときと、ギュンター・ヴァントのブルックナーが出たとき、ごく最近では、アンネ=ゾフィー・ムターのアルバムが出たときくらい。NAXOSの新譜は別にしてもだ(でも、トスカニーニのコレクションが出たときは驚いた)。
十数年前というと、カルロス・クライバーの次の演奏が頻りに噂されていて、彼のベートーヴェン五番・七番が(海賊版ならいざ知らず)グラモフォンの正規の輸入盤でもまだ二千円くらいした頃で、それとても、現在なら国内盤でさえ千数百円だ。待てば海路の日和あり、ではないけれど、“BMGJAPANの衝撃”(ソニーの傘下に入った)の余波もあって、たとえばヴァントのブラームス交響曲全集(輸入盤)が三枚組千三百円*1で売られている、というような昨今の状況は、すこし以前と較べても、ちょっと信じられないくらいである。
もっとも、旧譜でも新版で出たり(再CD化)、CD化されていなかったいわば〈伝説の録音〉が新たに出たりするときは、また別のはなし。たとえば今は、メンゲルベルクやパブロ・カザルスのバッハ、フルトヴェングラーのブルックナーがopus蔵でなんと千円プラス消費税(二枚組、三枚組でもすべて千円)で買えるし、ポール・パレーの高速テンポの田園(1954年、デトロイト響)が、ベートーヴェンの二番やモーツァルトのハフナーなどと抱き合わせ*2、二枚組で千五百円だ(世界初CD化との由)。パレー・コレクションは、シブ系好みを任ずる人には垂涎の品であるらしく、売行きもすこぶる好調だという。僕はもちろん、パレーの田園の凄さを伝聞でしか知らなかったが。こういう話題性のある録音の戦略的な売出しかたには喜んで踊らされるのだけれども、はっきり言うと、最近の、文字どおりの新譜には魅力のないものが多い。“机上音楽”を好む僕のような無精者、しかも財力もない人間は、高くてリスキーな演奏はどうしても避けたいところだ*3。
数年前――といっても、もう五年前のことであるが――、某氏のチャイコフスキー六番をテレビで視聴するとなかなか良かったので、ブラームスの一番を買ったらアンダンテ以降の出来に愕然とした、という失敗例もある。新譜に手が伸びかけたが、その二分の一以下の値段で買えるミュンシュのベルリオーズに変更、という無難な選択に落着いて、それでかえって安心したこともある。
だから、僕はときどき、新譜のあの異様な高さとはなにか、ということを考える。いやそれは、このところクラシックの旧譜があまりにも安いので*4、ついついそう考えてしまうだけなのかもしれないが。
■四月某日。近所の本屋で『文藝春秋』五月号を買う。
巻頭グラビアが美智子さま一色で、他誌の特集を陵駕している。
地味な扱いでちょっと残念なのだが、太田雅子「夫・市川雷蔵へ―四十年目の恋文」には感動。雷蔵ファンでなくとも、邦画ファンなら読むべし。雷蔵の祥月命日が石原裕次郎と同じだということに、今さらながら気づく(この日は、僕にとってもすこし特別な日なので、たまたま気づいたのである)。
遺作『博徒一代 血祭り不動』の凄絶さをはじめて目の当りにしたときの印象は今でも忘れない。また、邦画のシリーズ物で何が好きか、という話になると、必ず、「雷蔵の眠狂四郎」と答える。
歿後四十年、といえば、獅子文六も同じである。
それから、『中央公論』五月号もチェック。加藤徹「未曾有の漢字ブームの不気味さ」。加藤先生は一昨年、NHKの「知るを楽しむ」で柳家花緑さんと共演していて、たしか役名が“漢文二十面相”だったとおもうが、そのキャラクターがすっかり定着してしまい、「カンゴロンゴ」にも同じ恰好で登場されていた。