こんなところに獅子文六

 ずっと以前、Oの210円均でひろった函入の新井静一郎『ある広告人の日記』(ダヴィッド社1973)。新井静一郎の名にひかれて買ったのだが、読んでみるとやっぱり大正解。めっぽう面白く、十返肇だの斎藤寅次郎だのといった人物が次々に出てくるのがまた楽しい。
 その昭和十三(1938)年十一月二十六日(土)の條に、

 午前中映画「森永グラフ」の内容を検討する。服部正氏が来て、最初の出の音楽を作曲してくれることになる。(以下略)(p.83)

とある。「森永グラフ」とはPR映画だろうか。この主題歌の作詞を、どうやら獅子文六が担当することになったようだ。三日後の條を見てみる。

十一月二十九日(火)
 例の「青年森永の歌」の件につき、獅子文六氏を訪問した。作品から想像する瀟洒な家とは事変って、獅子氏の家は、本名岩田豊雄とも似ても似つかぬ古風な家に住んでいた。ただ塀だけは最近新しくしたのか、塗色がかなり目立っている。
 先に電話をして時間を打合せ、午後一時に行ったのだが、獅子氏はまだ戻らず十五分程待たされる。奥さんが来たばかりらしい「新青年*1を持ってきてくれる。
 獅子氏は相当大柄な人で、作風より気骨ありげに見えた。「さあ、僕に歌が作れるかな」とのことだったが、こちらの話を聞いて結局快く引受けてくれる。東日連載中の「沙羅乙女」を来月十五日までに書き上げる予定だから、その頃打合せをしましょうといわれた。(p.85)

 半月後。

十二月十七日(土)
(略)昼に、獅子文六氏を千駄ヶ谷に迎えに行き、銀座の「藍水」で服部正氏、山崎、稲生さん(山崎宗晴、稲生平八のこと―引用者)とともに昼飯をたべながら、「青年森永の歌」について打合せを行う。ともかく、今年一杯に作詞ができ来年五日までに作曲をすることにまとまる。(p.88)

 そのまた二週間後。大晦日である。

十二月三十一日(土)
 お昼少し過ぎに家を出る。稲生さんと、獅子文六氏の家へ「青年森永の歌」の原稿をもらいに行くためである。田町から省線千駄ヶ谷へ着いたら、ちょうど約束の一時だった。
 稲生さんはダットサンでもう着いていた。私の家へ電話をかけてくれたが、出たあとだったとのこと。獅子氏は不在であったが、奥さんが原稿を預っていてくれた。
 それから銀座へ出て、ヂャーマン・ベーカリーで休みながら、歌詞を見る。要領のいい、歌いやすい、新鮮味は期待した程ではないが、いい歌だと思った。これなら大丈夫通るとホッとした。
 稲生さんと銀座で別れ、原稿を山崎さんのところへ置いて三時頃帰宅した。今年も、もうこれで何も用がない。(p.91)

 しかし、年明け早々、雲行きがあやしくなる。

一月一日(日)
 昨夜は十二時すぎまで起きていたので、今朝は九時少し前まで眠っていた。十時半頃。稲生さんから電話がかかってきて、獅子氏の歌が社長その他のオエラ方をパスしないという。
 俗っぽいとの事で、稲生さんの口振りだと相当強硬らしい。それで、作曲者服部さんの意見も聞き、作者に訂正を乞わなくてはならないから、稲生さんも一緒に服部さんのところへ行くとの事であった。(中略)
 人里離れた、あまり霜解けのひどくない田圃道を行くと、洋館が三軒ポツンと建っている。その中の一軒が服部正氏の家だった。庭のひろい、明るい住居である。
 服部さんは、しきりに獅子氏の歌に感心していた。結局、このままのと、出だしを変えてもらったのと二種類を作曲して、もう一度会社の批評を受けようということになる。(以下略)(pp.92-93)

 このうち「出だしを変えてもらったの」が通ることになったらしい。

一月二日(月)
 十時半過ぎに、獅子氏のところへ電話で存否を確かめ、すぐ省線で出かける。大変頼みにくい訂正なのだが、丁重に詫びて頼んでくる。
 「その代わり僕の方でも考えて見ます」と、責任を半分背負い込まされる。(略)
 服部氏へその旨すぐ速達を出そうとしたら、受付は午前中だけで駄目だった。*2(p.94)

 五日後、歌がようやく完成する。

一月七日(土)
 青年森永の歌ができ、服部氏が会社へ来て、山さん始めみんなと一緒に三田の竹内楽器店へ行き、ピアノで弾いてもらう。洒落てはいるが、さほど新鮮味はなく、腹からの声で溌剌と歌えるものとは違う。一応これで、重役などに押してみることにした。(以下略)(p.95)

 重役たちは、この歌も気にくわなかったようで、さらに変更を求めてきたらしい。

一月九日(月)
 代表者会議と親善図画展覧会が迫ってきたので、俄然慌だしくなってきた。今日また獅子文六氏のところへ行く。例の青年森永の歌の改訂の件である。文学座のこと、沙羅乙女のこと、映画化のことなどしばらくお喋りをする。(以下略)(p.95)

一月十日(火)
 (前略)午後五時半に銀座のキャンデーストアで服部氏と会い、作曲の改訂その他打合せをする。結局、服部氏に獅子さんのところへ出向いてもらうことになった。(p.96)

一月十四日(土)
 (前略)改訂した「青年森永の歌」を、服部氏に三田の竹内でまたピアノで弾いてもらう。大体これで押すことにする。(p.98)

 結局、次のような結果となった。

一月十七日(火)
 二時頃から猪瀬君にダットサンを運転してもらって、獅子文六氏のところへあやまりに出かける。山さんのスローガンを歌詞に割込ませた件だ。相当にがい思いであったが、ともかく承知してもらう。
 帰途、神宮外苑で猪瀬君が買い立ての写真機で撮してくれたが、笑顔もしたくないような気持であった。「青年森永の歌」は、明日コロムビアで吹込みをするので、今日も午後四時から服部さんとKOマンドリンクラブの連中に来てもらって練習をする。(p.98)

 「青年森永の歌」は、文六の年譜等や服部正ディスコグラフィに出てこない。

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 Tの50円均でたまたま見かけて拾った、安川第五郎監修『われらすべて勝者―東京オリンピック写真集』(講談社)の巻末に、獅子文六の「開会式を見て」(初出は1964.10.11付「東京新聞」)が収められていた(他に、三島由紀夫「彼女も泣いた 私も泣いた」、永井龍男「一編のシナリオ」、石原慎太郎「聖火消えず移りゆくのみ」などを収める)。読んだおぼえはなかったのだが、『愚者の楽園』に「オリンピック開会式」というタイトルでちゃんと収録されていた(朝日新聞社版全集では第十五巻に収録。pp.350-51)。ただし、「ジェット機の五輪煙」(単行本・全集版):「ジェット機の出す煙」(『われらすべて勝者』)など、文章に若干の異同がある。

*1:獅子文六と「新青年」との関わりについては、たとえば『獅子文六全集 別巻』(朝日新聞社)pp.306-318「出世作のころ」など参照。

*2:その翌日の條に「朝、獅子氏のところへ速達を出してから「宮本武蔵」の風の巻を読み続けた」、とあるのだが、服部正に速達を出したとの記述はない。