某所からの帰途、Rの店頭均一(200円棚)を覗くと、中村伸郎の随筆集二冊が目にとまった。
『おれのことなら放つといて』、『永くもがなの酒びたり』(ともに早川書房刊)の二冊。前者は遅まきながらの処女随筆集(1986年刊)、後者は遺稿集(1991年刊)である。中村がこれ以外にも著作を出したかどうかは知らない。
『おれのことなら放つといて』というタイトルは、中村の自作句「除夜の鐘おれのことなら放つといて」から採られているのだが、源氏鶏太の『私にはかまわないで』をおもわせもするし、孤独を好んだ彼の性格がよく伝わってくる。
濱田研吾氏は、『脇役本―ふるほんに読むバイプレーヤーたち』(右文書院,2005)のなかで、句作を趣味とした中村伸郎、龍岡晋、宮口精二を「クボマン(久保田万太郎)大山脈」の名脇役と位置づけていて、『おれのことなら放つといて』などを取上げている。
そこで濱田氏は、中村の文章について、「その持ち味は、品とユーモアの結晶にある。無頼な持ち味には欠けるものの、ひょうひょうとした文体のゆるさは、草野大悟と似たところもある」(pp.305-06)と評しており、とりわけ第三章「先生や仲間たち」を面白く読んだ、と書いている。
私は、まっさきにこの第三章から読んだのだが、当該章には「岩田先生追憶」という短い文章もおさめてある。岩田先生とは岩田豊雄、つまり獅子文六。ここで主に書かれるのは、中村も所属した文学座の俳優Mが、ある女優に子供を生ませて実行委員を解任された、という事件についてである。Mとはおそらく、のちに映画俳優として名をなした森雅之であろう*1。
さて、その事後処理をめぐって、獅子文六は、森本薫などの座員にかげで文句を言われたそうだ。そんな挿話も面白いのだけれども、ここでくわしいことには触れない。
中村はこの文章を、以下のように結んでいる。
こんな筋の通らない文六先生……私がいい加減な奴だけに、故先生のこんなところが好きであった。十三回忌ともなると腹の立ったこともさりながら、通算すれば愛すべき話題を残した先生であった。(p.122)
こういった獅子文六の人間くささは、「獅子文六先生」(『永くもがなの酒びたり』所収)にも描かれている。そして、文六の人づかいのあらさが座員のささやかな反撥をまねいた、という次の裏話もまた面白い。
そんなある時文学座の稽古場に野良犬が迷い込んできて、可愛い雄犬だったが、みんなが弁当の残りをやったりするもんだからすっかり懐いて他所へ行こうとしない、しようがないから文学座で飼ってやろうということになり、名前を付けてやろうとみんなで考えたのだが、私が、
「いい名前を思いついた、文六にしよう。文六、文六と呼び捨てにしたらいい気持ちじゃないか」
と言ったらみんな大賛成で、毎日、
「文六、うるさいぞ文六」
と言って大喜びだった。叱られてばかりいる日頃のウップンも晴れるし、胸のつかえも下りる気がしたからである。
そのうちに杉村春子さんが、あの気の強い杉村さんが怖くなったのか、
「いくらなんでもこれはやめた方がいいんじゃない、もし岩田先生が文学座に見えたとき、ついうっかり誰かが、おい文六、なんて言ったらただ事ではすまないわよ」
と言い出した。そう言われれば私も怖くなってきて文六というのはやめにして、太郎という名前に変えてやった。
太郎はとても素直な犬で、みんなに可愛がられていた。(pp.43-44)
ところで中村は、戦前は築地座に所属していた。築地座というのは、友田恭助とその妻・田村秋子が私財をなげうって結成したもので、後援者として久保田万太郎、里見紝、岩田豊雄、岸田國士がいた。
中村の「飛行館と私」(『おれのことなら放つといて』所収)によれば、築地座は昭和六年に発足し、その翌年に第一回公演が行われたというが、ここでちょっと、同時代の記事を引用しておくことにしよう。
次には友田恭助、田村秋子、東屋三郎、杉村春子等の「築地座」であるが、「新築地劇団」がいまだに左翼傾向的な劇を固持しているに反して、此の劇団は早くから芸術派を奉じて、創作劇に主力を注ぎ、此の方面では川口一郎、菅原卓、三宅悠紀子、田中千禾夫、伊賀山精三、小山祐士、森本薫等の有為な新人を幾多送り出している。フランスその他の新しい翻訳劇もその間に加えられて、しっとりとした滋味のある戯曲を好む劇団である。俳優ではその他に中村伸郎、堀越節子があり、演出には久保田万太郎、里見紝、岩田豊雄、岸田國士などもある。(「新劇の現状」『野口冨士男随筆集 作家の手』ウェッジ文庫,p.175)
この文章は昭和十年六月に書かれたものだが、それからわずか四箇月後の昭和十年十月、築地座はその幕を閉じた。
野口のいうように、築地座はもともと左翼的な劇団ではなかったが、昭和十二年に友田を演技主任として発足した*2文学座も、その気風を受けついでいた。しかし、敗戦後にその性格がわざわいすることもあったようだ。杉村春子は次のように書いている。
古いものがすべて悪く言われたその時代にあっては、戦争中続いて来ただけに「文学座」の立場は、非常に苦しいものになりました。左翼でなければいけなかった戦争直後の社会に、左でも右でもない「文学座」のゆき方というものは、かえっていろいろと批判されました。
(杉村春子『楽屋ゆかた』*3学風書院1954,p.42)
さて、文学座の中心的な存在であった友田恭助は、昭和十二年の秋、おりしも日支事変が勃発した頃であったが、応召先の上海・呉淞クリークで凄絶な戦死を遂げる。そのことについては中村の「わが師、友田恭助」(『永くもがなの酒びたり』所収)にくわしい。
友田の早逝は、獅子文六も『雑感―劇について』(道統社,1943)で悼んでいたし、杉村春子も『楽屋ゆかた』の「文学座の十五年―友田さんの思い出」で書いている。
だが、中村はこれを単なる美談では終わらせない。「友田さんに応召の赤紙が届くかなり以前から、友田夫妻の間柄は破局に在った。そして田村さんは川口一郎氏に惹かれたのであるが、それは浮気とか不倫とかにはほど遠い、おそかれ早かれそうなっても不自然ではない運命的とでも言うべき不幸な裏付けがあった」(「わが師、友田恭助」『永くもがなの酒びたり』p.65)と、意味深長なことを書いている。
なお、獅子文六が『観覧席にて』(読売新聞社,1954)において、友田、田村、川口一郎の「三角関係」について、推測もまじえながらではあるが、かなり踏みこんだところまで言及していること(「田村秋子」pp.139-53)を、最後につけ加えておく。
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*1:そのときに生まれた子供が、夭折した女優の中島葵ではないか。かなり有名な事件なので、ここまで書いても差支えはなかろう。
*2:久保田、岩田、岸田の三人が五十円ずつ資金を出し合って結成したという。
*3:たいへん愛らしい体裁の本で、中村伸郎が装幀を手がけている。またタイトルは、龍岡晋の考案によるものという。題字は杉村自身が書いているとおぼしい。中村伸郎は、杉村の達筆ぶりについて、「彼女の達筆は知るひとぞ知る。いまどき貴重な『水茎のあと』といってもいいほどである」(『おれのことなら放つといて』p.157)、「彼女の字の巧まさは、厳しいお習字を経た美しい『水茎のあと』である」(『永くもがなの酒びたり』p.107)などと何度も書いており、また、「見覚えのある達筆の賀状かな」という句も詠んでいるほどだ。