『棲息分布』のことから

 青銅器の邪眼(イーヴル・アイ)にタイトルの着想を得たという松本清張『棲息分布』は、文春文庫の改版で読んだことがある。この小説は、設定のスケールの大きさのわりに、内容はドロドロした男女の愛憎関係に矮小化されているので、そういう意味では、いかにも清張らしい作品と云えよう。
 主人公のひとり井戸原俊敏については、誰それがモデルである、といった穿鑿がしばしばなされるが、よくも悪くもこういった巨悪の圧倒的な存在感は、戦後まもない頃が舞台でないといかにも現実味がない。『けものみち』などもそうだった。
 さてこの作品、冒頭やラストは大幅に変えられたが、NHK土曜ドラマが映像化している(1977年10月15日放送)。脚本は故・石堂淑朗が担当、オープニングの印象的な音楽は、「パリは燃えているか?」の加古隆による。
 おかしいのは、オープニング・クレジットでずっと流れている映像がなぜか、作品とはまったく無関係の、「滋賀銀行横領事件」の犯人が連行されていく場面だということ。このドラマをリアルタイムで見ていた人たちは、なんか変だなとおもわなかったのだろうか。

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 「滋賀銀行横領事件」は、ドラマ版『棲息分布』の製作年からさかのぼること四年、1973年に起きた事件で、犯人は女性行員であった。
 松田美智子『美人銀行員オンライン横領事件』(幻冬舎アウトロー文庫1997)の「解説」(日名子暁)によると、「昭和四十年代後半から五十年代の半ばまでに女子行員による三件の巨額な横領事件が発生」したという。
 まず一件めは、「昭和四十八年、滋賀銀行山科支店から九億円を横領した勤務歴二十年以上のベテラン女子行員は、競艇狂いの妻子ある中年男に横領した金の大半を貢ぎ、逃亡。が、貢いだ男に逃げられ、大阪市内のアパートでほかの男と暮らしていたところを逮捕され」た(p.283)、というもの。「滋賀銀行横領事件」は、いうまでもなく、この一件めの事件である。
 二件めは、昭和五十年に「足利銀行栃木支店勤務の二十代の女子行員」が「旅行先で知り合った『国際秘密警察調査員』と称するゴルゴ13のできそこないのような詐欺師に二年間で約二億一〇〇〇万円を貢」いだ(p.284)、という事件。ちなみにこの事件については、澤地久枝氏が『烙印の女たち』(講談社文庫1980,解説は結城昌治!)で一章をさいて取上げている(「貢ぐ女・貢がす男の図式―足利銀行・二億円詐取事件―」)。
 三件めは、「昭和五十六年に起きた三和銀行茨木支店に十四年間勤務する女子行員のケース」で、「彼女は、恋愛中だった妻子ある『青年実業家』に瞬時にしてオンライン詐欺で引き出した一億三〇〇〇万円を渡し、共同事業を営む目的で海外へ逃亡した」(同前)という。松田著はこの三件めの事件に材を取り、それに脚色を加えている。
 さて「滋賀銀行横領事件」であるが、これに関しては、たとえば『日録20世紀スペシャル10―20世紀「男と女の事件簿」』(講談社1999)の記事がくわしく、そこには、故・上坂冬子氏の発言も引用されている。ちょっと引いてみる。

 作家の上坂冬子氏は、彼女たちについて次のように語る。
 「今はもう、こういうタイプの女性はいないでしょうね。今の女性が外に向かって自己主張するのとは反対に、二人とも自分の内面に向かって主張するタイプです。相手がどんなにひどいやつでも、愛する男ならその男に自分をささげてしまう。M・Iはこうしたタイプの、最後の世代かもしれませんね。それにしても私は、特にA・Oという女性には、犯罪は犯罪として裁かれるべきとしても、女性としての運の悪さに同情すら感じてしまいます」(p.23)

 上の引用文中、M・Iというのは昭和五十六年の「三和銀行事件」の犯人、A・Oというのが「滋賀銀行横領事件」の犯人である。
 また、『シリーズ20世紀の記憶 連合赤軍“狼”たちの時代―なごり雪の季節 1969-1975』(毎日新聞社1999)は、「滋賀銀行横領事件」を単独で取上げており(担当:宮本貢)、当時の女性識者たちの反応も引用している。ついでにそちらも引いておこう。

 たとえば(A・Oの―引用者)逮捕の直後、作家佐藤愛子さんはこう語っている。「あわれで、かわいそうで、お人好しな女なのだろう。そしてきっといちずな人なのでしょう」。同じく作家瀬戸内晴美(寂聴)さんは「彼女のしたことは全くバカバカしいと思うが、人間みんなが共有しているおろかさでもあり、私は彼女を石で打つ勇気はありません」(いずれも「朝日新聞」)。
 また評論家の上坂冬子さんは、自分がO(ここには本名が書かれている―引用者)と同い年で似た経歴を持つと述べつつ、こう書いた。〈この際だから若いOLにいっておきたいことがある。O事件を単なる公金横領事件として見るな、ということだ。これは“女”の事件である。あなたにとっても、私にとっても共通の“女”の事件である。〉(『ヤングレディ』73年11月12日号)(p.273)

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 2019年10月31日放送の「奇跡体験!アンビリバボー」SPで、足利銀行の横領事件が取り上げられていた(2019.11.1記ス)。

棲息分布 上 (文春文庫)

棲息分布 上 (文春文庫)

棲息分布 下 (文春文庫)

棲息分布 下 (文春文庫)

美人銀行員オンライン横領事件 (幻冬舎アウトロー文庫)

美人銀行員オンライン横領事件 (幻冬舎アウトロー文庫)

烙印の女たち (講談社文庫 さ 19-1)

烙印の女たち (講談社文庫 さ 19-1)