イーヴリン・ウォー『ラブド・ワン』のことなど

 池永陽一『学術の森の巨人たち―私の編集日記』(熊本日日新聞社2015)は、講談社学術文庫の編集者(出版部長)だった池永氏の回想録であるが、そこに由良君美『言語文化のフロンティア』(講談社学術文庫1986)を編んだ切っ掛けについて語ったくだりがみえる。

 この『言語文化のフロンティア』は、言語や日本語について私がこれまでに抱いていた概念や知識を根本から問い直すきっかけを与えてくれた忘れられない本である。
 じつは、国文学の別冊特集号『知についての100冊』に目を通していた時、その一冊として紹介されていたのが由良君美先生の『言語文化のフロンティア』であった。魅力的な異色のタイトルに引かれ、早速どんな本だろうかと、創元社刊の原本を手に入れ読んでみた。そこには私が今まで知らなかった言葉や言語文化についての興味深い論考がいくつも収められていた。(略)
 本書の中でも私が特に啓発されたのは、第2章の日本語の再発見に収められた「〈ルビ〉の美学」である。ルビ(ふり仮名)については、これまであまり関心もなく、単に漢字の読みを助けるための補助的なものと思っていたのだが、どうしてどうして、ルビは文章を、日本語を左右するほどの大きな働きをしていることを初めて教えられたのだ。(pp.97-98)

 これに触発され、久々に「《ルビ》の美学」を再読するため学術文庫版の『言語文化のフロンティア』を手に取って、冒頭からじっくり読み直していたところ、次のような記述があることに気が付いた。

 方言は、言うならば、地域コンミュニティーという個がもつ言語的多義性の一種と言ってよいだろう。おなじ地域コンミュニティーのなかの、おなじ階層に属していても、個々人の言語学的特徴の差異には驚くべきものがある。
 ちょうど顔のようなものだ、といったらよいだろうか。アメリカ人には日本人・韓国人・中国人の区別はできにくいらしいが、われわれ同士にはできる。イーヴリン・ウォーのある小説に、主人公のイギリス青年がアメリカに来て、アメリカ娘が誰も彼も、まるで規格品のように、おなじ姿態と顔付きをしているのに困り、「中国人の母親は、自分の娘たちを――西欧人には皆おなじにみえるのに――ちゃんと見分けるという話だが、アメリカの母親も見分けられるんだろうな」と考え込んでしまうシーンがあった。冗談ではない。自分の子供たちはおろか、手広く国内を歩いている人なら、顔とおなじだ、方言の微妙な差異は、頭のなかに地図のように描きあげられているにちがいない。(pp.15-16)

 この「イーヴリン・ウォーのある小説」というのは、たぶん“The Loved One”だよな、と微かな記憶を頼りに、イーヴリン・ウォー小林章夫訳『ご遺体』(光文社古典新訳文庫2013、以下「小林訳」)を索ってみると、やはりそうで*1

 彼女が部屋を出て行くと、デニスはすぐにこの女性のことをすべて忘れてしまった。どこにでもいるタイプだった。アメリカの母親は、離れていても娘の見分けがつくのだろうとデニスは考えた。中国人は見かけは同じように見える人種だが、微妙な違いでお互いを区別できるという。それと同じだ。(p.70)

とあった。由良の文章には「中国人の母親は」云々とあり、若干ニュアンスが異なるのだが、そもそもこの小説自体、『ハムレット』(p.69)、A.E.ハウスマンの詩(p.135)、アーネスト・ダウソンの『詩集』序文(p.181)等から、故意に不正確な引用をしている節がある。だからといって、由良も意図的にそうしたのかも知れない……などと考えるのは、おそらく穿ちすぎなのだろう。
 さて小林訳が出たのと同年同月(!)に、“The Loved One”のもう一つの邦訳書として、イーヴリン・ウォー/中村健二・出淵博訳『愛されたもの』(岩波文庫2013、以下「中村・出淵訳」)というのが出ている。これは、1969年に金星堂から出た旧訳に中村氏が手を加えたものらしい。
 ちなみにその訳書では、当該箇所が、

 彼女は部屋を出て行き、デニスはじきに彼女のことをすっかり忘れてしまった。彼は今までに彼女と至る所で会っていた。ちょうど中国人たちがどれも見た目にはひとしなみの姿かたちをしていながら、お互い同士、微妙な区別がつくと言われているように、アメリカの母親たちは自分の娘たちを別々に見ても見分けがつくのだろうと、デニスは思った。(p.71)

となっている。
 “The Loved One”という原題は、たぶん、ラスト直前のデニスの次の言葉――「要するにわれわれがやらなければならないのは、“ご遺体”を、こう言わせてもらうが、ここへ連れてくることだ」(小林訳p.201)、「今僕たちがしなければならないのは僕たちの『愛するもの』――こんな呼び方をしていいならの話だが――を収容して、ここに持って来ることだ」(中村・出淵訳p.204)という箇所に由来するものだろうが、この「ご遺体」「愛するもの」が具体的に何を指すのか明かしてしまうと、いささか興をそぐことにもなりかねないので、ここでは触れずにおく。
 また作中、デニスが観光案内映画の音声に耳を傾ける場面で、小林訳は「(神に)愛されし人」に「ラブド・ワン」とルビを振っているところがある(p.99)*2。これこそまさに、由良の「《ルビ》の美学」いうところの、「日本語の〈黙読二国語性〉を修辞力の増強に転用」(p121)した例のひとつといえよう。由良は当該文で、黄表紙本や洒落本におけるルビを例にとって、そこに「まず漢訳し、つぎに邦訳する一種の〈ひとり重訳〉とでもいうべき二重手続き」(同)という手法を見出しているのだが、「愛されし人(ラブド・ワン)」の例は、文語訳した表現に原音に基づくカナ表記を施すという「二重手続き」を行っているのであり、いわゆる現代「口語文」内におけるルビの振り方としては、もっとも「超前衛的」(こちらも由良の表現)だと言いうるだろう。
 ところで“The Loved One”には、他にも邦訳があるらしく、吉田誠一訳(早川書房1970)は『囁きの霊園』というタイトルで*3、また出口保夫訳(主婦の友社1978)は『華麗なる死者』というタイトルで出ていて、同一作品なのにバラバラでややこしい。しかしそこは、この作品が暗喩に満ちており、多様な解釈を許すため結果的にそうなったのだとも受け取れる。
 “The Loved One”は映画化もされている。邦題は『ラブド・ワン』であり、これはわかりやすい。しかし高崎俊夫氏によると、ウォーの“Decline and Fall”(小説名としての邦題は『衰亡記』『大転落』など)が1970年代半ばに、『おとぼけハレハレ学園』という「実にふざけた題名」となって深夜のテレビ映画で放送されたことがある(劇場未公開)のだそうだ(「イーヴリン・ウォー原作の幻の未公開映画」*4『祝祭の日々―私の映画アトランダム』国書刊行会2018)。高崎氏はこの作品を「抱腹絶倒の傑作」と評したうえで、

 とにかく、めまぐるしいばかりのテンポのよい語り口、主人公以外、全員気が狂っているような、『不思議の国のアリス』を思わせるナンセンスで馬鹿馬鹿しいギャグが次々に飛び出し、ラスト、悪夢のような遍歴を経て、平原の彼方へ走り去ってゆく主人公に、思わず、『幕末太陽傳』(57)の居残り佐平次を連想したものである。(p.11)

と述べている*5

学術の森の巨人たち -私の編集日記

学術の森の巨人たち -私の編集日記

言語文化のフロンティア (講談社学術文庫)

言語文化のフロンティア (講談社学術文庫)

ご遺体 (光文社古典新訳文庫)

ご遺体 (光文社古典新訳文庫)

愛されたもの (岩波文庫)

愛されたもの (岩波文庫)

*1:そもそもウォーの作品自体、そんなにたくさん読んだことがないので、当然といえば当然の話なのだが。

*2:中村・出淵訳は単に「死者」と訳している(p.100)。

*3:これは作中に登場する霊園の名称をそのままタイトルに用いたものだが、中村・出淵訳は「囁きの森」と訳している。

*4:この文章は2011年8月にネット上で発表されたものだが、本では補注の形で『愛されたもの』『ご遺体』が刊行されたことがフォローされている(p.13)。

*5:同書は、世にあまり知られていない映画や文章を多く紹介していて、とりわけわたしは、エリザベス・ボウエン『日ざかり』を原作とする英国映画が『デス・ヒート/スパイを愛した女』という邦題でVHS化されていることや、秦早穗子氏が映画誌に厖大な量のエッセイを書いていることなどが気になった。他にも刺戟されたところや記憶が喚起された記述が多々あったのだが、それらについて書くのはまたの機会にしたい。

ヒッチコックの『泥棒成金』

 ヒッチコック作品は、高校*1、大学生の時分にある程度まとめて観て、その後――山田宏一和田誠両氏による対談本『ヒッチコックに進路を取れ』が刊行された2009年(一昨年に文庫化された)、同書に触発されて、『見知らぬ乗客』を皮切りに、それまで観たことがなかった作品も含めて集中的に観ており、以降もBSやCSでヒッチコック映画や「ヒッチコック劇場*2が放送されるたびに観てきた。
 どちらかというと洋画よりも邦画を好むわたしにとって、また、洋画になると必ずしも「作家主義*3を標榜し(たく)なくなるわたしにとって、ヒッチコックチャップリンウディ・アレンフランク・キャプラビリー・ワイルダーバスター・キートンウィリアム・ワイラー、そしてルネ・クレールジャック・ドゥミフランソワ・オゾンあたりは、その監督作品だというだけで、ついつい観てしまうのである。
 最近はこちらで映画のことを書かずにいたが(映画音楽についてはここ野村芳太郎八つ墓村』について書き、作品自体についてはここ伊藤大輔『弁天小僧』を観たときの感興を記して以来、ということになる)、なんとか時間を捻出して、たとえ細切れでもできるだけ観るようにはしており、この3月は12本、4月には11本観ている*4
 5月は多忙につき(?)なかなか観られなかったが、ようやく1本目を観ることがかなった。
 それが、アルフレッド・ヒッチコック泥棒成金』(1955米、"To Catch a Thief")なのである。もうずいぶん前に一度観たはずだが、細部はすっかり忘れていたので、初めての鑑賞といっていい。
 この作品が歴史的に重要なのは、ヒッチコックの長篇作品としてはこれ以前に『裏窓』(ジェームズ・スチュアート主演)、『ダイヤルMを廻せ!』(ロバート・カミングス主演)の2本に出演したヒロイン、グレース・ケリーの「最後の出演作」になったからで、ヒッチコックはそれ以降、自分の作品に同じような(ブロンドの)ヒロイン像を求めて試行錯誤を繰り返すことになる。
 このことに関しては、山田宏一氏が『映画術 ヒッチコックトリュフォー』を翻訳するにあたって、疑問点をフランソワ・トリュフォーに書翰で、ないしは直接会って問い質しており、その当時のインタヴューでも言及されている。トリュフォーの言を引く。

 ヒッチコックの最大の不幸は、言うまでもなく、彼の永遠のヒロインともいうべきグレース・ケリーを失ったことでしたが、彼女がモナコのレーニエ三世と結婚して引退したことをヒッチコックは惜しみつつも恨んではいませんでした。南仏で『泥棒成金』を撮影中にヒッチコックグレース・ケリーとともにレーニエ三世に食事やパーティーに招かれ、それがきっかけで彼のヒロインとモナコ大公との恋がはじまったことをヒッチコックはよく知っていたし、レーニエ三世とも仲がよかったからです。(略)しかし、グレース・ケリーの引退にはただ愛惜の念を示していただけでした。それだけに、じつは絶望も深かったのでしょう。『泥棒成金』以後のヒッチコック映画のヒロインを演じた女優たちは、ティッピ・ヘドレンもキム・ノヴァクエヴァ・マリー・セイントもヴェラ・マイルズも、すべてグレース・ケリーの代用品だったと言ってもいいくらいです。『めまい』はグレース・ケリーのために企画された映画でしたが、彼女がいなくなったために、もうひとりのグレース・ケリーをつくりだそうとするヒッチコック自身の悲痛な物語とみなすこともできます。(山田宏一ヒッチコック映画読本』平凡社2016:68)

 さて映画は、クレジットタイトルが終ってその冒頭、高齢の女性のクロース・アップで幕をあける。朝に目が覚めて、自分の宝石が何者かに盗まれたことを知った彼女は、顔を歪めて悲鳴をあげるのだが、これは後年の『サイコ』のジャネット・リーの絶叫シークェンスの先取りとも見える。
 プロットとしては、ヒッチコックお得意の「巻き込まれ型サスペンス」で、海外を舞台にしているところは『知りすぎていた男』(英国時代の『暗殺者の家』のリメイク)や後年の『引き裂かれたカーテン』などと同工、『泥棒成金』のニースの花市場での追いつ追われつの緊迫感は、『知りすぎていた男』のマラケシュの市場でのシーンを想起させる。
 また、『バルカン超特急』や『裏窓』、『ダイヤルMを廻せ!』、『サイコ』などでみられた男女一組のいわゆる“素人探偵”の筋書きはここでは姿を消しており、主人公たるケーリー・グラントは有名な元「宝石泥棒」*5にして「対独抵抗運動(レジスタンス)」の闘士、という設定で、あろうことかグレース・ケリーからも疑いの目を向けられることとなり、彼はその疑いを晴らすために孤独な戦いを強いられる*6。しかし最後の最後には、自分の誤解を認めたグレース・ケリーも彼の側について、大団円を迎えることになる。
 この作品では、ケーリー・グラントが警察の任意聴取からのがれるために屋根の上へと逃げるところが、最初のサスペンスフルな展開となるのだが、「屋根の上」のシーククェンスは、ラスト間際のクライマックスで今度は“大捕物”の場面として反復される。そこでふとおもい出したのが、伊藤大輔『弁天小僧』(1958大映の凄絶なラストであり、またブライアン・デ・パルマアンタッチャブル』(1987米、"The Untouchables")ケビン・コスナーとビリー・ドラゴとが「対決」するシーン*7だったのだが、そういえばデ・パルマには、殺しのドレス』(1980米、"Dressed to Kill")というヒッチコック作品のオマージュ(山田宏一氏などは「イミテーション?」とも評する)があるのだった*8! それはともかく、警察をまいたケーリー・グラントは悠々乗合自動車に乗り込んでひと息吐くが、そこで向かって右の席に何食わぬ顔をして坐っているのがヒッチコック本人、なのだった。監督本人の「カメオ出演」のシーンをさがすのも、ヒッチコック映画の愉しみのひとつだ。
 それにしても、この作品のグレース・ケリーの「亭主狩り(マン・ハント)」ぶり(山田宏一)はものすごい。
 これについては、山田宏一『映画的なあまりに映画的な 美女と犯罪』(ハヤカワ文庫1989)の劈頭を飾る「グレース・ケリーヒッチコック映画の女たち」(pp.9-21)が詳述している。
 これはまだ、グレース・ケリーケーリー・グラントを疑い始めるよりも前の場面に関する記述なのだが――(つまり、以下のやり取りで彼女は「本気で疑っている」わけではない)、

 『泥棒成金』のグレース・ケリーも、男(ケーリー・グラント)をホテルの寝室のベッドには誘わないが(彼女は、ただ、寝室の入口で、その晩はじめて会った男に燃えるようなくちづけをするのだが)、翌日、早速、車には誘う。もちろん、運転するのは彼女だ。なにしろ彼女は「タクシーのなかで生まれた」というぐらいだから、車のなかは揺籃同然、我が家同然といったところ。男を車のなかに誘いこんだら、もうお手のものである。『泥棒成金』の原題《To Catch a Thief》そのままに、彼女はねらった男(ケーリー・グラントはかつては〈ネコ〉と呼ばれた名高い宝石泥棒である)をつかまえたのだ。(略)
 グレース・ケリーケーリー・グラントをドライブに誘い、モンテカルロの町と海が一望に見渡せる場所に車をとめる。(略)
 グレース・ケリーケーリー・グラントに「胸がほしい? それとも、脚?」などときくので、ケーリー・グラントがギョッとすると、それはピクニックのために用意してきた昼食のフライドチキンのことだったというようなおふざけがあって、グレース・ケリーはなおも逃げ腰のケーリー・グラントに迫る。かつて〈ネコ〉の異名で世間を騒がせたこの素敵な中年の紳士泥棒をもうすぐ罠にかけられるという思いにワクワクしているのがわかる。
「〈ネコ〉におてんばの子ネコができたのよ」
「冗談はよせ」(とケーリー・グラントはぐっとグレース・ケリーの腕をつかむ)
「あたしの手首に指紋がついてよ」
「ぼくは〈ネコ〉じゃない」
「あなたって握る力が強いのね。泥棒はそうでなくっちゃ」
「このために来たんだろう?」(とケーリー・グラントグレース・ケリーをひきよせてキスをする)
「今夜、八時にカクテル、八時半にお食事――あたしの部屋でね」
「行けない。カジノへ行って花火を見物するんだ」
「あたしの部屋からのほうがよく見えるわ」
「約束があるんだ」
「来てくれなきゃ、あなたの行った先に“〈ネコ〉のジョン・ロビーさまァ”って呼びだしをかけるから。では、八時にね、遅れてはだめよ」
「時計がない」
「盗みなさい」
 ふたりはそのまま抱きあうのだが、じつに見事な、そして魅惑的なヒッチコック的美女の〈亭主狩り(マン・ハント)〉の一と幕であった。デイヴィッド・ドッジの原作にはこんなすばらしくばかげたシーンがあるかどうかは知らないけれども、このしゃれたせりふを書いたのは、『裏窓』から『泥棒成金』をへて『ハリーの災難』『知りすぎていた男』に至るヒッチコック映画の最もウィットに富んだ台詞を書いている(そもそもはラジオ作家だという)ジョン・マイケル・ヘイズである。グレース・ケリーは「盗みなさい」と言うところで、まるで「あたしをつかまえなさい」といわんばかりのいたずらっぽい目つきをする。(pp.13-19)*9

 「ピクニックのチキン」のくだりについては、これ以前にも山田宏一氏が、『シネ・ブラボー 小さな映画誌』(ケイブンシャ文庫1984)というチャーミングな本(カバー、本文イラストともども和田誠氏が担当している)のなかで言及している*10

 『泥棒成金』のピクニックのシーンで、グレース・ケリーが「胸? 腿? どっちがほしい?」と言うので、ケイリー・グラントが一瞬ドキンとすると、それはバスケットからとりだした昼食用のチキンだったというようなせりふのユーモラスな、しかしエロチックなニュアンス。(「ヒッチコックのフェイク」p.201)

 なおつけ加えておくと、グレース・ケリーがハンドルを握るシーンでは、車は切り立った崖がちらちら視界に入る山道を猛スピードで走り抜けるのだが――後年のグレース・ケリーの最期に思いを致すとき、複雑な気持ちになるけれど――、そしてこれは映画冒頭ちかくに見られる、南仏の海や街を背景にして行われる幾分のんびりした印象の空撮でのカーチェイスよりもはるかに迫力があるのだが(時々主観ショットが挟まれるので当然なのだろうが)、隣に坐るケーリー・グラントが、恐怖心から膝がガクガクするのをどうしても抑えられず、思わず手で押さえてしまうというショットが2、3度挿入されている。
 少なくとも美女の前では余裕をみせていたさしものケーリー・グラントも、このときばかりは目も泳いでいて全く余裕がなく、完全にグレース・ケリー支配下にあり、おもわず笑わされてしまうのだが、笑ってばかりもいられないのは、それが、グレース・ケリーというかフランセス・スティーヴンス(役名)による、一世一代の真剣な「亭主狩り」の一環であるからなのだろう。
 さきに引いたインタヴューで、トリュフォーケーリー・グラントについて次のように語っている。

 なぜヒッチコックが『北北西に進路を取れ』の主人公の役にゲーリー・クーパーではなくケーリー・グラントを起用したのか。その交替の理由は、たぶん、これはわたしの想像にしかすぎませんが、あえてその理由をさぐれば、当時ゲーリー・クーパーは病気がちで、すっかり老けこんでいたからだと思います。おそらくすでにガンに冒されていたのかもしれません。ケーリー・グラントは、ゲーリー・クーパーとほとんど同年齢だったけれども、ずっと若々しく、老いのイメージがまったくなかったので、ヒッチコックは彼を起用したにちがいないのです。(略)ヒッチコックの映画はすべてラヴ・ストーリーなので、『北北西に進路を取れ』のときもヒッチコックはそれにふさわしい若さのあるスターを考えたのだと思います。ケーリー・グラントは年齢的にはジェームズ・スチュアートよりも若くはなかったけれども、ヒッチコックの『泥棒成金』(一九五五)でカムバックして身も心も若返っていた。その後、ケーリー・グラントが第二の青春ともいうべき二枚目スターとしての新しいキャリアをつづけていくことはごぞんじのとおりです。(山田宏一ヒッチコック映画読本』平凡社2016:66-67)

 確かにケーリー・グラントは、例えば(6歳年長だった)アイリーン・ダンと共演したレオ・マッケリー『新婚道中記』(1937米、"The Awful Truth")*11と比較して見るとき、当時からさほど変わっているようには見えず、それどころか、ますます脂が乗りきっているという印象を受ける。
 山田宏一氏も、彼について次のように記している。

 (ケーリー・グラントは)老いることを知らない「永遠の青年」ともいわれた。ゲーリー・クーパークラーク・ゲーブルとわずか三歳違いにもかかわらず、まるで一世代も若々しい感じで、しかも年齢とともに男らしい色気というか、セクシーな風格と品位を増したスターであった。一九五五年に五十一歳で出演した『泥棒成金』と五九年に五十五歳で出演した『北北西に進路を取れ』という二本のスリルとサスペンスにみちたロマンティックなヒッチコック映画では、「ただ突っ立っているだけ」でなく、スタントまがいのダイナミックなアクションを披露し、そのはつらつとした若さで美しいヒロインのグレース・ケリーエヴァ・マリー・セイントを魅了した。(略)
 いつまでも子供っぽい、やんちゃなムードを失わなかったケーリー・グラントの、あの愛すべき笑顔に魅せられて、『シャレード』のオードリー・ヘップバーンが言うように、「欠点のないことが欠点」というところがケーリー・グラントの魅惑の美徳だったのかもしれない。(山田宏一「ミスター・ソフィスティケーション」『何が映画を走らせるのか?』草思社2005:330-32)

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ヒッチコック映画読本

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何が映画を走らせるのか?

何が映画を走らせるのか?

*1:初めに観たのが、(中学時代の友人O君が怖くて直視できなかったという)ダフネ・デュ・モーリア原作の『鳥』だったことをおもい出す。その映像感覚、ストーリーテリングぶりに驚倒し、続けて『知りすぎていた男』を観たのだったか。

*2:冒頭にヒッチコック本人が現れて人を喰った「解説」を行う(「世にも奇妙な物語」のタモリはこれを意識したものなのだろうか?)のが、その風丰と相俟っておかしい。グノーの「マリオネットの葬送行進曲」でお馴染みだ。この音楽は、のちに日本のCMなどでも使われた。

*3:作家主義については、山田宏一『何が映画を走らせるのか?』(草思社2005)の「『作家主義』の功罪」(pp.46-57)がたいへん参考になる。

*4:あえて月ごとにベストワンを挙げるとすれば、3月はルチオ・フルチ『真昼の用心棒』(1966伊)、4月は川島雄三『風船』(1956日活)になろうか。後者は再鑑賞。

*5:劇中では、「十五年間盗みははたらいていない」と言っている。

*6:もっとも、ジョン・ウィリアムズジェシー・ロイス・ランディスという全篇を通じての理解者がいることはいるのだが、ケーリー・グラントは彼/彼女と一緒に冒険を繰り広げるわけではない。ちなみに、後者のジェシー・ロイス・ランディスについて、山田宏一氏は「ヒッチコック映画の母親」と称し、「ざっくばらんで、剽軽で、ひと目でケイリー・グラントの母親になる。(略)『泥棒成金』でも『北北西に進路を取れ』でも、彼女はあざやかに(というか、ケロリとして)警察の目をごまかしたりしてケイリー・グアントの危機を救う」(「ヒッチコック・フェスティバル」『シネ・ブラボー 小さな映画誌』ケイブンシャ文庫1984:214-26)と述べている。この記述は、山田宏一ヒッチコック映画読本』(平凡社2016)p.240にそのまま利用されている。

*7:この場面で流れるエンニオ・モリコーネの"on the rooftops"は、ひところ「警察24時」といった類の番組のBGMで頻用されていた。

*8:これを「下品」と評する向きもあるが、わたしはこの作品を、探偵役(のひとり)を演じたナンシー・アレンとともに「偏愛」している。またナンシー・アレンというと、『ミッドナイト・スキャンダル』(1993)での猛烈な演技が忘れられない。

*9:この引用の一部は、山田宏一ヒッチコック読本』(平凡社2016)pp.99-100にも使われている。

*10:のちに山田宏一ヒッチコック映画読本』(平凡社2016)でも言及されている(p.275)。

*11:『新婚道中記』は、ギャグはさすがに古めかしいが、スミスという名の犬の使い方や、壊れた扉などの小道具の使い方が非常に巧い。ケーリー・グラントは以降もアイリーン・ダンと2作品で共演することになる。

早川孝太郎の『花祭』『猪・鹿・狸』

 早川孝太郎(1889-1956)、という民俗学者がいた。
 わたしはその名を、たしか岡茂雄の『本屋風情』で初めて知り、深く記憶に刻みつけたはずである。なにしろ同書の書名の由来に関わってくる人物なのだから。
 少し長くなるが、そのくだりを「まえがき」から引いておこう。

 本書の表題を『本屋風情』としたが、私はけっして卑下して用いたのではない。これには次のような動機があったのである。
 柳田国男先生がある事情からじれて関連者たちがほとほと困ったことがある。その事情や困った話のかずかずは、いずれ筆を改めて書こうと思っている。事は昭和三、四年の頃であったと思う。渋沢敬三さんも困った揚句、「柳田さんを呼んでいっしょに飯を食おうではないか」と提案され、私も賛成したが、「その時は君も主人側としてくるんだよ」といわれたので、「それは困る。荒れ(私たちは柳田先生のじれて当たり散らされるのを、荒れといっていた)の相手の一人である私は、はずしたほうがよい」といったのだが、「それはいかんよ、そんなことをいえばぼくだってその一人ではないか、それなら早川(孝太郎)君にも――これだってその一人といえないことはないんだが、主人側としてきてもらうから我慢して出たまえ、そのほうが却って、こだわりが薄れると思うからだよ」といわれ、不承不承加わることにした。「客としても柳田さん一人では、やはり具合が悪かろうから、石黒(忠篤)にもきてもらおう」ということになった。
 これらの人の間柄が、どのようなものであったかを、簡単に記しておこう。
(略)
 早川孝太郎氏についてはあまり広く知られていないようであるが、川端龍子門下の画人であり、後には柳田先生の末弟松岡映丘画伯のひきいる「新興大和絵会」の客員でもあったが、一面早くから柳田先生の学問に馴染んで師事することになっていた。氏は民俗採訪の優れた才能をそなえていたところから、渋沢さんの絶えざる支援を得て、時には石黒さんと連れ立ったりして、全国を採集して回り、あるいはまた石黒さんの推挙で、九大の小出満二博士のもとで、農村民俗調査等の仕事をしたりしたが、晩年は、これもまた石黒さんの世話で、鰐淵学園で教鞭をとってもいた。『花祭』の大著をはじめ、『猪 鹿 狸』『大蔵永常』、そして柳田先生との共著『女性と民間伝承』等の著作がある。
 さてこの催しは、数日後に実現し、渋沢邸(今の第一公邸)にひげてんを出張させ、座敷てんぷらで会食をした。表面はとにかく歓談という格好で、二、三時間を過ごした。終わって、主賓の柳田先生は渋沢家の車で送られ、石黒さんと早川氏と私は、当時の市電で帰途についた。三人とももちろんこの催しの意味は承知の上であったので、電車の中で、まずまず平穏無事でめでたしめでたしだったと語り合った。ところが、その二、三日後早川氏がきて、「きのう砧村(柳田邸所在)へ行ったが、だいぶ御不興だったよ」という。「ぼくがいたからでしょう」というと、早川氏は「そうなんだ。なぜ本屋風情を同席させたというんですよ」といい、私も「そんなことだろうと思っていたんだ」といって、二人で笑ったことであった。
 本屋風情とは、いかにも柳田先生持ち前の姿勢そのままの表現であり、いうまでもなく蔑辞として口走られたのではあるが、私にとってはまことに相応わしいものと思い、爾来――出版業を離れて久しいが、この「本屋風情」の四字に愛着をさえもつようになっていたのである。(「まえがき」『本屋風情』中公文庫1983、pp.10-13)

 ちなみに、上記で早川が「川端龍子門下の画人」だったことになっているのはどうも誤りらしい。須藤功『早川孝太郎―民間に存在するすべての精神的所産』(ミネルヴァ書房2016)には、次の如くある。

 早川は兵役を終えると上野の美術学校近くの家に書生として入り、絵画の勉強を続けた。洋画から日本画に転じ、大正二年(一九一二)に川端玉章が主宰する川端画学校に入学したようである。川端龍子の門下になったという説もあるが、龍子は昭和二年(一九二七)に青龍社を結成するまで弟子を取っていないとされる。(pp.66-67)

 昨秋、早川の著作のうち二冊――『花祭』『猪・鹿・狸』が、角川ソフィア文庫に入った。
 『花祭』はまず1930年、前・後篇計千七百ページ超の大部の書物として岡書院から限定三百部で刊行されたが、早川の歿後(1958年)に、その“抄縮版”が岩崎美術社の「民俗民藝双書」に入った(第12冊)。抄縮版は、原著の約五分の一の分量で、このほど出たソフィア文庫版はこれをもとにしている。『花祭』はかつて講談社学術文庫にも入ったことがあり、まだ現物を確かめていないが、こちらも抄縮版に基づくと思しい。
 「花祭」というのは奥三河の山里数箇所に伝わる霜月の祭りだが、早川の著作によって全国区のものになったとされる。
 ソフィア文庫版にも収録された澁澤敬三の「早川さんを偲ぶ」によると、

 昭和五年この出版慶祝として、小宅改築を機に最も因縁の深かった中在家の花祭を東京に招致し、柳田・折口(信夫)・石黒(忠篤)諸先輩を初め、多くの知友に見て頂き現地へ出難き方々にも真似事乍ら花祭を味って頂いたのであった。出席者の御一人泉鏡花老はその後小説に花祭の光景を扱われた。(pp.8-9)

といい、文人にも何らかの刺戟を与えたようだ。その招待客のなかには、金田一京助新村出小林古径らもいたという(須藤功『早川孝太郎』p.30)。
 一方『猪・鹿・狸』は1926年、郷土研究社から「炉辺叢書」につづく“第二叢書”の一冊として刊行された。約三十年後、これに「雞の話其他」(1925年、「民族」第一巻第一号に発表された)を再構成した「鳥の話」の章が附録として加えられ、角川文庫に入った(1955年)。その後講談社学術文庫に入ったようだが、筆者は未見である。今回のソフィア文庫版は、奥付をみると角川文庫版の「改版」という扱いになっており、角川文庫版の鈴木棠三「解説」のほか、新たに常光徹氏の「解説―新装にあたって」を附している。
 ついでに述べておくと、『猪・鹿・狸』の「凡例、その他」には、

 本の標題であるが、これがこの本に続いて「鷹、猿、山犬」および「鳥の話」を刊行し、二部作あるいは三部作としたい気持ちもあって撰んだものであった。実は書名について、当時健在であられた芥川龍之介さんから、自分は近く「梅、馬、鶯」という本を出す予定であるので、あなたの本を見て、その偶然に驚いたという意味を申し送られたものであった。(pp.9-10)

とあり、この件は鈴木の「解説」も触れている。

 『猪・鹿・狸』は、当時炉辺叢書というシリーズを出版しておられた故岡村千秋さんの郷土研究社の第二叢書ということで刊行された。折から『梅・馬・鶯』という、名詞三つを並べた題名の随筆集を公にしようとしていた芥川龍之介氏が、先を越された偶合に驚き賞讃した早川さん宛の書簡は、全集にも入っている。都会人の郷愁とのみ言い切れぬものと思う。
 このついでに言うと、(早川の―引用者)『三州横山話』が出た時、島崎藤村氏が書を寄せて、自分もかねがね郷土の民話を書いてみたいと思っていた、と賞揚されたことがあったという。(pp.239-40)

 実は、芥川もかつて『三州横山話』を随筆で取りあげたことがある。

 なお次手に広告すれば、早川氏の「三州横山話」は柳田国男氏の「遠野物語」以来、最も興味のある伝説集であろう。(略)但し僕は早川氏も知らず、勿論広告も頼まれた訳ではない。(「家」『澄江堂雑記』、石割透編『芥川竜之介随筆集』岩波文庫2014所収:195)

 また鈴木は、さきに引いた「解説」で続けて次のように書いている。

 中国の文人周作人氏が、日本の書物の中で最も愛読した本として、この『猪・鹿・狸』を挙げて、非常に叮嚀な紹介をされたことは、最高の知己の言であったとせねばならぬであろう。このような具眼者によって、渝(かわ)らぬ支持が、本書の初刊以来ほとんど三十年にわたってなされてきたことは、それだけの高い評価に値するものが本書に具わっていたことの証左というべきである。(pp.240-41)

 周作人が『猪・鹿・狸』を愛読書の一つとして挙げたことは、前述の須藤功『早川孝太郎』も触れており(p.6)、須藤氏によれば、後年早川は周作人に北京で面会したといい*1、またその際、中国人学生向けに「日本民俗学の現状」と題する講義も行ったという(p.234)。
 周の『猪・鹿・狸』評が日本で知られるようになったのは、松枝茂夫訳の『周作人文藝随筆抄』*2によってであろうが、当該の文章は最近、新訳で中島長文訳注『周作人読書雑記2』(平凡社東洋文庫2018)に収められた(pp.37-42)。周はそこで、「最初出た時に一冊買い、後で北平の店頭で一冊見たのでそれも買った。もともと友人にやるつもりだったのだが、今もって送っていない。それもケチなためではなく、人にこんな好みがなかったらと恐れたからだ」(p.37)と述べ、「全部で五十九篇、その中で猪と狸に関するものが最も面白く、鹿の部分はやや劣る」(p.38)と評している。さらに、その文章の末尾では『三州横山話』も引いている。

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 さて『花祭』は、ソフィア文庫版の帯に「柳田国男折口信夫も衝撃を受けた日本民俗学不朽の名著」とあるように、民俗学や人類学の方面ではよく知られた書物であり、現在に至るまでしばしば参照されている。
 例えば山口昌男は、日本の祭りのなかで「狂気」が定型化された例として、「故早川孝太郎氏によって精細に記述されて、あまりにもよく知られている三河花祭り」を挙げたうえで、早川の『花祭』から「せいと」についての文章を引用している。
 「せいと」は「せいと衆」ともいい、「大部分がいわゆるよそもので、祭りにもなんら交渉のないただの見物」客で、かつ「なんの節制も統一もない群衆」のことだが、「舞子に対してはもちろん、その他神座の客や楽の座に対して、あるかぎりの悪態をあびせる」(『花祭』角川ソフィア文庫、pp.391-92)*3。「どんな悪態、悪口」とは言い條、そこには「一定の型」が認められたようで、これを山口は「祭りそのものの構文法」と見なし、「定型を媒介として、狂躁が成立している」ことに着目すべきだと説いた(「文化と狂気」、今福龍太編『山口昌男コレクション』ちくま学芸文庫2013所収、pp.123-25*4)。
 また、戦中の早川や柳田の動向ひいては「日本民俗学」を断罪する論者、例えば村井紀氏でさえ、“早川の方法論を評価する従来のやり方ではなく、その著作が日本の植民地主義の作物だった側面に注目すべきだ”――という考えのもと、「『花祭』も、“黒島調査”も、その「俗」なる部分を見なければならない」(「日本民俗学と農村―早川孝太郎について」『新版南島イデオロギーの発生―柳田国男植民地主義岩波文庫2004所収p.256*5)と述べ、やはり『花祭』を例に挙げている。
 早川の様々の貌に触れ得るという意味で、今回のソフィア文庫での復刊が、『花祭』だけにとどまらず、『猪・鹿・狸』との併せての刊行であったことを、まずは寿ぎたい。

本屋風情 (中公文庫 M 212)

本屋風情 (中公文庫 M 212)

花祭 (角川ソフィア文庫)

花祭 (角川ソフィア文庫)

芥川竜之介随筆集 (岩波文庫)

芥川竜之介随筆集 (岩波文庫)

周作人読書雑記2 (東洋文庫)

周作人読書雑記2 (東洋文庫)

山口昌男コレクション (ちくま学芸文庫)

山口昌男コレクション (ちくま学芸文庫)

南島イデオロギーの発生―柳田国男と植民地主義 (岩波現代文庫)

南島イデオロギーの発生―柳田国男と植民地主義 (岩波現代文庫)

*1:この当時、周作人は北京大学の教授となっていた。1942年2月11日、周らによって早川の招待会が開かれたという。その後、同年3月14日に早川が帰国の途につくまで何度か会っていたかも知れない。

*2:須藤著巻末の「早川孝太郎年譜」によると、1940年6月5日刊。

*3:須藤著によると、「花祭の別名は「悪態祭」で、舞をまう祭場の舞戸ではどんな悪態、悪口も自由に言ってよかった」。そして、これを見物した澁澤敬三にも遠慮会釈なく悪口が浴びせられた。「着ている外套(オーバー)を指して、「その外套どこで盗んできたか」などと言った。渋澤はそんな悪態をニコニコしながら聞いて、「花」を楽しんだ。早川のことを、「また座敷乞食が来ている」と言ったという」(p.11)。

*4:初出は「中央公論」1969年1月号、のち『人類学的思考』せりか書房1971に収む。

*5:初出は「日本文学」1993年3月。

『陶庵夢憶』や周作人のこと

 張岱(ちょうたい)著/松枝茂夫訳『陶庵夢憶』(岩波文庫1981)という、滋味あふれる明代の随筆集がある。気が向いたときに、時々本棚から取り出しては読む。とりわけ「三代の蔵書」(巻二、pp.105-07)、「韻山」(巻六、pp.230-32)あたりが気に入っている。
 当時の江南地方の飲食や風習に関する記述も読んで面白く、たとえば篠田一士『グルメのための文藝読本』(朝日文庫1986)は、「蜜柑」という文章でこれを取り上げて、

(張岱が―引用者)四十余年をかけて書きつづけた明末の歴史『石匱(せきき)書後集』は中国史書の傑作だが、晩年、往時を回想して書きつづった小品集『陶庵夢憶(とうあんむおく)』も、また、抒情的エッセーの逸品として忘れることはできない。ここには明末のはなやかな世相風俗のさまざまな局面が作者の経験にもとづいてえがかれていて、もちろん、口腹の楽しみについても、筆を惜しんではいない。
 この種の文人にしては、めずらしく下戸だったが、食べ物については、食通にふさわしい旺盛な好奇心と食い意地が張っていたようで、「各地のうまいもの」と題する一篇を読むと、生地の紹興のある浙江省一帯はいうまでもなく、北は北京や山東、南は福建などの各地から、それぞれ名物を取り寄せていることが、品目の一覧表によって明らかである。(p.292)

と書いている。しかしこの『陶庵夢憶』、訳者の松枝にいわせると、「文章が恐ろしくむずかしく、(北京に留学していた二十代後半頃は―引用者)てんで歯が立たなかった」(p.9)。そこで、張岱の同郷人でもあった周作人(魯迅の弟)に、「字句のわからぬ個所についても質問した」(「あとがき」p.377)ことがあるのだそうだ。
 松枝の「まえがき」によると、『陶庵夢憶』の版本には二種――「硯雲甲編」に収められた一巻本(短文四十三條)と、王文誥(おうぶんこう、字は見大)の序のある八巻本(百二十三條)とがあるという。重複は三十九條。咸豊五年(1855)には、「粤雅堂叢書」に後者の八巻本が収められ、兪平伯の校点本(1927刊)、台静農の校点本(1958刊)などはみなこれに拠るというが、粤雅堂叢書本しかり校点本しかり、残念なことに誤植が少なからずあったらしい。
 松枝が『陶庵夢憶』に初めて触れたのは、1930年、北京大学の近くにあった小さな本屋・景山書社で、樸社刊の兪平伯校点本を見つけたことによる。これに周作人が序文を寄せていたらしい。周は、当時殆ど忘れられていた張岱を、『中国新文学の源流』などの書物によって再び世に知らしめたという。
 ちなみに景山書社や樸社に関しては、松枝が「あとがき」で次のように記している。

 この景山書社(けいざんしょしゃ)という本屋では妙に面白い本を売っていた。樸社(ぼくしゃ)出版部の出版物が多かった。すぐ店の前の道を隔てた筋向いに「樸社出版部」と書いた看板が掛かっていた。兪平伯とか顧頡剛(こけつごう)とか、北京大学の若い優秀な学徒たちがこの中にたむろしているのだなあと、私はこの店にくるたびにその緑色の五字を眺めながら感慨にふけったものだった。
 樸社の出版物はみな毛色が変っていた。うしろに付載されている出版書目を見ても、売れそうにもない本ばかり並んでいる。しかしそこに樸社の人々の利益を度外視したいちずな心意気がうかがわれた。それらの中に顧頡剛の『古史辨(こしべん)』があり、兪平伯の校点した『浮生六記』や『陶庵夢憶』があり、あるいは王国維(おうこくい)の『人間詞話(じんかんしわ)』等々があった。いずれも情熱の書というにふさわしく、人を魅きつける何ものかがあった。樸社の人々の学問や文学の対するひたむきな愛情がこうした本を選ばせたのだと思われた。(p.373)

 文中の顧頡剛『古史辨』*1は、特に第一冊に附された「自序」が著名で、オランダの「ライデン・シナ叢書」(Sinica Leidensia)の一冊目に加えられたといい、西洋でもよく知られているそうだが、邦訳としても、顧頡剛著/平岡武夫訳『ある歴史家の生い立ち―古史辨自序―』(岩波文庫1987)がある。その「文庫版あとがき」(平岡)は、樸社の由来にも触れているので、ついでながら引用しておく。

 最も興味深いのは、樸社の成立である。上海で、沈雁冰(しんがんひょう)・胡愈之(こゆし)・周予同(しゅうよどう)・葉聖陶(しょうせいとう)・王伯祥(おうはくしょう)・鄭振鐸(ていしんたく)・兪平伯(ゆへいはく)らが、文学研究会に集まって閑談しているうちに、我々が本を書いて商務印書館に儲けさせておくことはない、自前で出版しよう、と鄭振鐸が言い出し、みなが賛成して、月に各人十元を積み立てることにした。「樸社」の名は、清朝の樸字から取った。周予同の提案による。顧氏が総幹事に推された。この企ては、二年の後に、上海における戦禍のために解散した。顧氏と兪平伯が北平において更めて范文瀾(はんぶんらん)・馮友蘭(ふうゆうらん)・潘家洵(ばんかじゅん)ら十人と謀り、積み立てること一年、北京大学の向いに三間の小房を借りて「景山書社」を開いた。そして『古史辨』第一冊を出版した。売れ行き甚だよく、一年の間に二十版を重ねた。(p.232)

 さて平岡による『古史辨』自序の初訳は、もと「昭和十五年五月に『創元支那叢書』の一つとして刊行された」(「新書版あとがき」p.198)。
 「創元支那叢書」というシリーズの存在は確かこのあとがきで知ったのだったが、同叢書の第五冊、周作人/松枝茂夫譯『瓜豆集』(創元社1940)をのちに均一棚で入手したことがある*2。これはしかし完訳ではなく、巻頭の「譯者のことば」には、

 譯者は初め本書の全譯をなすつもりであつたが、途中又考へがかはり、都合により四篇だけ省略することにした。『日本文化を談ずるの書の二』『童二樹に關して』『邵無恙に關して』『年寄の冷水』がこれである。無くとも大旨はきずつけぬと信じてゐる。(pp.7-8)

とある。このうちの二篇、「日本文化を談ずるの書の二」「年寄の冷水」は、現在、周作人/木山英雄編訳『日本談義集』(平凡社東洋文庫2002)で邦訳を読むことができる*3
 同書での邦題はそれぞれ「日本文化を語る手紙(その二)」「年寄りの冷水」となっていて、これらが邦訳版『瓜豆集』で省かれたのは、読んでみると判るのだが、恐らく、日本あるいは特定の日本人を激越な調子で批判しているからで、時局がそれを許さなかったものと思われる。
 もっとも、省略されなかった文章のなかにも日本を批判したくだりが少し含まれている。しかしそれも訳出されていない。たとえば「日本文化を談るの書」に、「譬へば『源氏物語』や浮世繪を鑑賞できる者でも、(削除)必ずやたゞ醜惡愚劣を感ずるだけでせう」(p.117)とあるところ、『日本談義集』所収の「日本文化を語る手紙」を見ると、「例えば『源氏物語』や浮世絵を鑑賞できるものが、柳条溝、満州国、蔵本失踪、華北自治それに密貿易などを見れば、醜悪愚劣としか感じられぬでしょう」(p.257)、となっている。
 そういった日本批判がみられるのも、「知日家」周作人なればこそなのだろうが、この一月から刊行され始めた中島長文訳注『周作人読書雑記』(全五冊、既刊は二冊)を見ると、周は、日本の書物や中国の古典だけでなく西洋の書物もバランスよく読みこなす読書人であったことがうかがい知られる。
 上記との関連でいうと、「東京の書店」(第一巻、pp.112-20)など『瓜豆集』に収められた文章の新訳のほか、「王見大本『夢憶』」(第二巻、pp.270-72)も収められている。『夢憶』はすなわち『陶庵夢憶』のことだが、これは先に述べた、兪平伯校点本に附された序とは別のものであろう*4(『書房一角』〈1944刊〉に収められた文章であるらしい)。当該文は、周が最初に入手した甲寅(乾隆五十九年=1794)本や、「最近」入手した王文誥本の書誌について記しており、短いながら、『陶庵夢憶』諸本系統の考察の一助になる。

陶庵夢憶 (岩波文庫 青 217-1)

陶庵夢憶 (岩波文庫 青 217-1)

ある歴史家の生い立ち―古史弁自序 (岩波文庫)

ある歴史家の生い立ち―古史弁自序 (岩波文庫)

日本談義集 (東洋文庫)

日本談義集 (東洋文庫)

周作人読書雑記1 (東洋文庫)

周作人読書雑記1 (東洋文庫)

周作人読書雑記2 (東洋文庫)

周作人読書雑記2 (東洋文庫)

*1:第五冊まで樸社刊、第六・七冊は樸社が閉じたために開明書店(上海)から刊行されたらしい。

*2:巻末の既刊書目を見ると、『古史辨自序』は第三冊に入っている。

*3:ここ(http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20170328)で触れた梁啓超和文漢読法』に関する文章も収めてある(pp.208-13)。

*4:凡例には「周作人が書いた『序跋』類は、彼が見た書物の現物に関わる部分が多く、それを見ることにはかなりの困難が伴うので、原則として採らなかった」、とある。

大泉滉・大泉黒石

 濱田研吾*1『脇役本』が、ちくま文庫に入った。元版の右文書院版はかつて読んだことがあり、「中村伸郎の随筆集」で触れたこともあるが、増補がなされているというので手に取ってみた。
 増補部分であらたに加えられた役者の顔ぶれがまた豪華だ。高田稔、賀原夏子細川俊夫多々良純、伊豆肇、月形龍之介杉狂児天知茂等々19人、なかには主役級の役者も含まれる。たとえ単行本を持っていたとしても、文庫版を購う価値は大いにある*2
 個人的には、そこに大泉滉(あきら)を加えてくれた(pp.413-18)のが嬉しい。文中で取り上げられた大泉の著作、『ポコチン男爵おんな探検記』『ぼく野菜人―自分で種まき、育て、食べようよ!』の二冊は知らなかったが。
 濱田氏も「(大泉が)三人目の妻といっしょに出て、恐妻家で胃腸が悪そうなイメージをお茶の間に広めた和漢の生薬「奥田胃腸薬」」(p.413)云々、と書いているように、濱田氏や少し下の我々の世代にとって、リアルタイムで見た大泉は、バラエティー番組「わてら陽気なオバタリアン」等で妻道子さんの尻に敷かれる“恐妻家”としての姿である(ちなみに私自身はけっして恐妻家というわけではないのだが、恐妻家という存在自体に興味があり、「『恐妻家』」「ふたたび恐妻家」「阿部真之助の本」などでそれに言及したことがある)。実際には、テレビでの恐妻家の姿は「演出」で、道子さんとの夫婦仲はたいへんよかったようだ。大泉の告別式だったかで、道子さんの憔悴しきった姿を見て涙を誘われた記憶もある。
 その後、モノクロの邦画をよく観るようになって、『自由学校』『お早よう』等、優男でハンサムなのに絶妙な三枚目を演ずる大泉のことがさらに気になり始めた。そして2013年、確かMXで、「プロレスの星 アステカイザー」(円谷プロ)という特撮ヒーローものが再放送されていて、たまたま第五話あたりから最終回まで通して見た*3のだが、これに大泉が「坂田」という新聞記者役でレギュラー出演しており、眼が釘付けになってしまった(坪内祐三氏が「本の雑誌」の当時の読書日記で、この番組の最終回のサタン・デモン=山本昌平の「最期」について書いていた)。
 つい最近も、『昭和の謎99―2018初夏の特別号』(ミリオン出版)という雑誌の巻頭カラーに片山由美子氏のインタヴュー記事が載っていて、その発言中に、

「(「プレイガール」の―引用者)ゲストは毎回ユニークな方ばかり。コメディアンの由利徹さん(故人)は、宿泊先の温泉で男風呂と女風呂の敷居の板の底の部分の隙間から潜水して、女風呂に侵入してきましたし、大泉滉さん(故人)なんて女湯の上の部屋から逆さまにぶらさがって覗いていた、っていう伝説もあるんです。両足を誰かに持ってもらってたんでしょうけど、覗く方も命がけ(笑)」(p.7)

とあり、もちろんこれはいけないことなのだけれど、逆さまにぶらさがる大泉を想像して、つい笑ってしまった。
 ことしで歿後20年になるそうだが(4月23日が命日とのことである)、大泉はこうして思わぬところに時々顔を出すので、私にとっては、やはり気になるバイプレーヤーの一人だ。

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 しかし、大泉滉の父親が作家の大泉黒石(1893-1957)だと知ったのは、つい最近、2013年夏のことであった。黒石の生誕120年を紀念して刊行された『黄(ウォン)夫人の手―黒石怪奇物語集』(河出文庫)、そのカバー袖に「俳優の滉は三男」とあり、驚いたのだ。なお文庫版の帯には「生誕120年、ついにあの黒石、初文庫!」とあったが、黒石によるロシア文学の概説書『ロシア文学史』(原題:『露西亜文学史』)が、30年近く前(1989年)、講談社学術文庫に入っている。
 文庫の『黄夫人の手』が出るまで、わたしは黒石の文学作品を読んだことがなかったけれど、存在は知っていた。それは、由良君美が黒石全集の解題を書いているという事実によってだったかもしれないし、「怪奇物語」作家の系譜を辿ることによってだったかもしれないが、それでも、ロシア人と日本人とを両親にもつ特異な作家、というぐらいの認識しかなかった。
 黒石は、「中央公論」の編集者だった木佐木勝大正8年入社)が残した日記の前半部にしばしば顔を出している。最近、この日記が上下二巻本で復刊された。それを見てみると、黒石が文壇の新星として期待されながらも、編集者や文学者の信頼を失ってやがて消えてゆく過程がかなり詳細に描かれている。
 木佐木勝『木佐木日記 上―『中央公論』と吉野・谷崎・芥川の時代』(中央公論新社2016)から、以下、主な記述を引いておくことにする。

 今日午後から田中貢太郎氏と大泉黒石氏現わる。大泉氏はロシア人を父とし、日本人を母とした混血児で、その数奇な運命を「俺の自叙伝」としてこんどの特別号に書いている。この人の原稿は田中氏の紹介で(滝田)樗陰氏が読んだのだそうだが、樗陰氏は例に依って最大級の言葉で「面白い面白い」とほめ上げていた。自分も校正で、読んで面白いとは思ったが、少し面白すぎるとも思っていた。(略)「俺の自叙伝」も変っているが、この人自身が変っているという印象だ。自叙伝を読み、実物を見て正体がつかめないところがあると思った。黒石は十二ヵ国語に通じているという田中氏の話もにわかに信用できないと思った。しかし樗陰氏は今日大泉氏が持って来た次の原稿の話にすぐ飛びつき、来月号に続編を書いて持ってくるように勧めた。(大正八年八月二十日、pp.38-39)

 今日の『朝日新聞』に大泉黒石の記事が写真入りで出ていた。二、三日前に『中央公論』が出たばかりなのに、早くもキヨスキー・大泉がクローズアップされて、彼の経歴談が彼自身の口で語られている。自分の故郷はトルストイの住んでいたヤスヤナポリヤナに近いので、トルストイはよく知っているなどとも言っていた。「俺の自叙伝」に出ていたフランス時代の話や、これからの仕事に対する抱負らしいことも、謙遜しながら語っていた。新聞に出るのが早いのにも感心したが、黒石氏もどうやら「俺の自叙伝」で一躍、世に出たという感じだ。(大正八年九月十日、p.55)

 今朝、編集室で皆と雑談していた時、樗陰氏が久米(正雄)君から聞いた話だが、大泉黒石の「俺の自叙伝」にはでたらめなところがあるそうだと、その個所を指摘していた。それは黒石ことキヨスキー少年が、フランスの中学校にいたとき、悪戯をして校長室に呼ばれ、校長に青竹で尻をたたかれていたら、窓からアルフォンス・ドオデエがのぞいていてニヤニヤ笑って見ていたというところだが、実は黒石ことキヨスキー少年がフランスに居た時期は、ドオデエはすでにこの世にいなかったということだ。
 樗陰氏は久米君に指摘されるまですこしも気がつかなかったと言い、どうも話がうますぎると思ったと笑っていた。(略)高野氏*4もそばから、そういえば、トルストイに田舎路で会って、石を投げつけたらトルストイが怒って、猿のように真赤になって石を投げ返した話なども、少し怪しいものですネというと、樗陰氏は、今まで「俺の自叙伝」を激賞していた手前、少し興醒めた顔をしていたが、「しかしあれは面白いことはたしかに面白いよ、黒石は一種の奇才だネ」とこんどは逆にほめていた。(大正八年九月十一日、pp.56-57)

 そのとき、こんどの特別号に大泉黒石の小説が入るという話をしたら久米氏はちょっと妙な顔をした。大泉黒石の「俺の自叙伝」の中のでたらめを指摘したのは久米氏だったが、樗陰氏はこの読物作家の奇才を買ってか、その後引き続いて黒石の自叙伝物を書かせ、どういうわけか創作欄にも小説を載せるようになった。久米氏などの意見はどうかと興味を持って尋ねてみたが、久米氏は別に問題にしていないらしく黙っていた。自分などこの場ちがいの作者が一枚、こんどの特別号に加わるために、何か白米の中に砂が交じっているような気がしている。どうもこの作者はニセモノだと思っているが、どこが樗陰氏の気に入っているのか自分には分からない。久米氏に限らず、どの作家でも大泉黒石のことになると触れたがらないから妙だ。(大正九年三月十五日、p.178)

 近ごろ大泉黒石氏の評判が社の内外でひどく悪いようだ。いつだか田中貢太郎氏が来たとき、「黒石はひどいうそつきだ」と怒っていたが、話を聞くと諸方へ行って、田中氏のことについて根も葉もないでたらめな噂を撒き散らして歩いているのだそうだ。今日村松梢風氏が来たときも、「黒石はうそつきの天才ですよ」と言っていたが、村松氏も被害者の一人らしかった。村松氏は「黒石が何んのためにありもしないでたらめな噂を撒き散らして歩くのか、その気持が全くわからない」と不思議がっていた。樗陰氏もいつか黒石氏を相撲に招待したところ、そのあとで、国技館で樗陰氏が両国〔梶之助〕に声援していたら、両国ぎらいの隣りの客とけんかになり、帰りにその仲間のために袋だたきにあったなどと、黒石氏が方々へ行ってしゃべって歩いていたのが樗陰氏の耳に入ったので、樗陰氏は呆れていたようだった。村松氏の話を聞いて、樗陰氏は「僕が袋だたきにあったなどとしゃべって歩くのは、どういうつもりなのか全く見当もつかない。近ごろは黒石が恐ろしくなった」と言っていた。
 黒石氏も『中央公論』に「俺の自叙伝」を発表して以来すっかり読み物の人気作家になり、その後『中央公論』や『改造』に創作も発表して作家の仲間入りをし、ほうぼうの雑誌で引っ張り凧の人気者になったのに、どういうわけか今年になってから余り社にも寄りつかなくなっていた。近ごろになって、黒石氏の知り合い関係から黒石氏についての悪い噂が流れるようになった。初めは黒石氏が先輩を抜いて一躍文壇の人気ものになったので、その人たちのそねみから黒石氏のことをとやかく取り沙汰するのではないかと思ったこともあったが、だんだん話を聞けばそうばかりではないように思われた。樗陰氏まで被害者にされて怒っているところをみると、評判どおり黒石という人物の正体がわからなくなってきた。(略)村松氏の話だと、「ある人が黒石のところへロシヤ人を連れて行って話をさせたところ、黒石は全然ロシヤ語がわからなかった」と言っていた*5。「それにしても近ごろどうして黒石が寄りつかなくなったのだろう」と樗陰氏は不思議がっていた。村松氏も最近会っていないということだが、たぶん余りでたらめを言いふらしたあとなので、来にくくなったのだろうということになった。(大正十一年五月二十五日、pp.349-50)

 読物作家から『中央公論』や『改造』の創作欄に起用されて新作を発表していた大泉黒石氏も今では人気が落ちてしまった。(大正十二年三月三十一日、p.383)

 近ごろ自分は大泉黒石という人は、精神の国籍のないロシア人だと思うようになったが、佐々木指月氏は精神の国籍はやはり日本だと思うようになった。(大正十二年四月四日、p.389)

 さて『黄夫人の手』の巻末には、由良君美の「大泉黒石掌伝」と「解説 無為の饒舌―大泉黒石素描」とが附されている。
 由良は「無為の饒舌」で、上で引用した『木佐木日記』の一部を紹介し、

 大正十二年三月三十一日には、(木佐木が) 「読物作家から『中央公論』や『改造』の創作欄に起用されて新作を発表していた大泉黒石氏も今では人気が落ちてしまった」と書き、これを最後に『木佐木日記』から黒石にかんする記述が姿を消すのは歴史的に重要なことである。木佐木は黒石をあくまで中間物作者の枠に入れて、ウサン臭く眺めることに終始し、二重国籍者の悲哀はおろか、小説家黒石の意義も、黒石のニヒリズムも、全く分っていなかった人である。(pp.271-72)

と木佐木を酷評している。ただし正確には*6、上でみたように、「大正十二年四月四日」の條が黒石に触れた最後である。そこで木佐木が、黒石を「精神の国籍のないロシア人」と評した真意は分からないものの、これが好意的な記述とは思われない。
 一方、由良が「小説家黒石の意義」「黒石のニヒリズム」と述べるのは、具体的には以下のようなことをさす。

その(黒石作品の)〈無為〉の哲学には意外に野太い支柱が通っており、その〈饒舌〉のレトリックには意外に錯綜した陰翳の襞がたたみこまれており、滑稽の鎧の影に、スケールの大きな痛みをかかえていたことを、マヤカシ屋として大泉黒石を文壇から一挙に抹殺した連中は、まったく理解していなかったのである。彼の生涯に支払われた高価な代償は、ようやく現時点をまって、その重みを露わにしはじめたということができよう。おそらく大泉黒石の哲学とレトリックは、〈無為〉と〈饒舌〉をつなぐ線上で、大杉栄辻潤坂口安吾石川淳たちを微妙に包摂し、的確に予言さすものをもっていた。戯作者の連綿たる伝統が、現代のニヒリズムと結んで甦えるところに昭和無頼派の成立根拠があるとすれば、その道を予感する海燕の唄を大泉黒石は、たしかな旋律で歌い、またそのゆえに、〈束の間の騎士〉*7にいよいよ徹する世俗的自己抹殺の後半生をひきうけざるをえなかったのである。(「無為の饒舌」p.267)

 「無為の饒舌」は初出が「ユリイカ」(1970年10月号)で、のち『風狂 虎の巻』(青土社1983)にも収録された。
 由良の著作は、近年ちくま文庫平凡社ライブラリーで復刊されており、その流れに乗ったか、『風狂 虎の巻』も新装版として復刊されている(青土社、2016年)。
 この『風狂 虎の巻』は、黒石についての文章として、「無為の饒舌」のほか「『黒石怪奇物語集』のあとに」「大泉黒石『人間廃業』」の計三つを収めているが、「『黒石怪奇物語集』のあとに」の記述は、「無為の饒舌」のそれとかなり重なっている。そこでは由良は、上引の文章とはやや異なる形で黒石を次のごとく評している。

 作家黒石の本領は――読み物作家ではなく――むしろ「デラシネの痛み」をニヒリズムを根幹にして戯作調諷刺へと昇華したところに認められなければなるまい。したがって彼の命脈は江戸期戯作の伝統を、同時代の大杉栄辻潤と雁行しながら、ロシア・中国の素養を生かして継承し、昭和における坂口安吾石川淳たちに媒介する長大な流れのなかで摑まれるべきであり、大泉黒石はこの意味で、昭和無頼派への貴重な中継所なのである。(「『黒石怪奇物語集』のあとに」『風狂 虎の巻』所収p.195)

 なお「無為の饒舌」には、次のようにもある。

 第二次大戦の暗黒時代は、黒石にとって、生涯のうちでも最も暗澹たる一時期であったに相違ない。どのような暮しをしていたのか、詳かでないが、ここでも、どん底のなかでの思想的節操はうかがわれる。昭和十八年七月十日の奥付で、大新社から、大泉清著『草の味』が発行された。ここには戦時下の食糧難に悩む日本人にたいして、親切を極めた食用雑草の献立法とその詳しい解説がなされており、あわせて、草食主義にことよせて、往年の老子思想がこっそりと顔をのぞかせている。文人黒石がこのような書物を書くことを、おそらく恥じてであろうか、黒石は本名の「清」をこの本にだけ冠した。(『黄夫人の手』pp.276-77)

 これは、黒石の息・大泉滉が著した『ぼく野菜人―自分で種まき、育て、食べようよ!』へとつながってゆく思想だともいえるであろう。
 濱田研吾氏は次のように述べている。

 大泉滉がものごころついたころ、父の黒石は売れっ子の作家ではなかった。まずしい生活を強いられ、野草を食し、自給自足のまねごとをやり、みずから野菜人となる。野菜づくりは趣味の延長ではなく、この珍優の人生哲学、生きる術であった。(『脇役本』ちくま文庫p.416)

    • -

 おそらく昭和ヒトケタ台の頃のことだと思うが、林芙美子は随筆「柿の実」で次のように記している(当時の黒石の暮らしぶりの一斑をうかがわしめる文章なので、引いておく)。

 隣家(となり)には子供が七人もあった。(略)
 この家族が越して来て間もなく、洽子ちゃんと云う十二になるお姉ちゃんと、ポオちゃん(四番目の男児―引用者)が手紙を持って、夜が更けてから遊びに来た。手紙には大泉黒石と書いてあった。まあ、そうですか、お父さまもよかったらいらっしゃいなと云うと、男の子はすぐ檜の垣根をくぐってお父さんをむかえに行った。(略)
 私は大泉黒石と云うひとにまるで知識がないので、どんなお話をしたものかと考えていると、ポオちゃんの連れて来た大泉さんは、まるで自分の家へあがるみたいにかんらかんらと笑って座敷へあがって来て、私の母の隣へ坐ったものだから、母は吃驚したような眼をしていた。手拭いを腰にぶらさげて、息子さんのつんつるてんの飛白(かすり)を着ているせいか、容子をかまわないひとだけに山男のように見えた。(略)
 今年は最早その家族もサギノミヤとかへ越してしまった。
林芙美子「柿の実」、庄野雄治編『コーヒーと随筆』ミルブックス2017所収pp.120-25)

*1:「濱」は正確には異体字だが、環境依存字のためこの形で示す。

*2:濱田氏は、文庫版追記で「脇役本全体から見るとわずかな増補に過ぎず」(p.7)と書かれており、かなり控えめだが、ページ数でいうと110ページ超(!)にのぼる。

*3:第何話かは忘れたが、「向ヶ丘遊園」がロケ地になっていたこともある。成瀬巳喜男『おかあさん』でロケ地に選ばれたもこの向ヶ丘遊園である。http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20060316参照。

*4:名は不明。木佐木の大学(早稲田大)の先輩にあたる人らしい。

*5:ただし、大泉黒石ロシア文学史』(講談社学術文庫1989)の「解説」で校訂者の川端香男里氏は、「たとえばイワン雷帝とクルプスキー公の往復書簡をとり上げているが、エピソード的に面白いものをこのように選び出したというのは、黒石が出来合いのロシア文学史に頼らず、アンソロジー類で原典を実際に読んでそれを基にしていたからであろうと考えられる」(p.439)と書いており、少なくとも黒石はロシア語を原典で「読む」ことができたようである。

*6:ついでながら、由良は黒石の歿年を「一九五六(昭和三十一)年」としているが(「大泉黒石掌伝」p.265)、これは「一九五七(昭和三十二)年」の誤のようである。

*7:ゴーリキー『チェルカーシュ』に登場する浮浪人たちを踏まえる。「海燕の唄」も、ゴーリキーの『海燕の歌』を踏まえている。

ちくま文庫の「ベスト・エッセイ」

 ちくま文庫が、昨年12月から4カ月連続で「ベスト・エッセイ」と冠したエッセイ選集を刊行している。大庭萱朗編『田中小実昌ベスト・エッセイ』(12月刊)、大庭萱朗編『色川武大阿佐田哲也ベスト・エッセイ』(1月刊)、荻原魚雷編『吉行淳之介ベスト・エッセイ』(2月刊)、小玉武編『山口瞳ベスト・エッセイ』(3月刊)の4冊である。
 かつてちくま文庫は、「田中小実昌エッセイ・コレクション」(全6冊)、「色川武大阿佐田哲也エッセイズ」(全3冊)、「吉行淳之介エッセイ・コレクション」(全4冊)などといったシリーズを出していたが、軒並み版元品切となってしまったので*1、今回それらの“よりぬき本”(むろんそれらに収められていなかったのも含まれるが)といった趣のある一冊本を改めて刊行してくれたのはまことにありがたい。
 まことにありがたいといえば、結城昌治*2や、獅子文六の相次ぐちくま文庫入りなども特筆すべきことなのだろうが、それについて書くのはまたの機会にしたい(ここに『可否道』=『コーヒーと恋愛』が再文庫化された話を書いたが、まさかその後オリジナル選集を含めて文六作品が11冊も文庫化されることになる〈3月現在〉とは思ってもみなかった。文六ファンとしては嬉しいかぎりである)。
 さて上記の「ベスト・エッセイ」、偶然なのかどうかは分からないけれど、『色川武大阿佐田哲也』以外の3冊が3冊とも、色川武大阿佐田哲也)の登場するエッセイを収めているのがおもしろい。以下、その一部を紹介してみる。

 色川武大とは『まえだ』でもあったし、『あり』や甲州街道のむこうのもとの旭町の、ドヤ街の裏壁と裏壁のあいだの裂け目の奥の、ドヤの住人でもいかない、ひどい飲屋の『姫』でもあった。ここは夜の女やオカマなどがあつまる店で、ぼくはモノが言えないサチという若い女となかがよかった。こんなところでも色川武大はにこにこおだやかな態度だった。『姫』も『姫』をとりかこんだドヤの建物もとっくになくなった。色川武大も死んじまった。(「路地に潜む陽気な人びと」『田中小実昌ベスト・エッセイ』所収p.42)

 元号が改って、その二月十八日に色川武大の予告なしの訪問を受けた。スケジュール表のその日に、「色川来ル」とメモがある。二十年ほど前から、私は訪問することもされることもあまり好まなくなり、彼が訪れてくるのも初めてだった。
 色川武大は大きな紙袋を提げていて、大国主神(おおくにぬしのみこと)のようだった。その袋から、三鞭丸のアンプルやロイヤルゼリーやそのほか漢方系の元気の出る薬を一山、テーブルの上に積み上げた。そして、これから結城(昌治)さんの家に行く、と言った。袋の中身は半分残っていて、それを届けるのだという。
 こういうことは偶然に過ぎない筈だが、いまにしておもうと、袋を提げて歩き出した色川武大は、ちょっと立止った。そして、「ま、これでいいか」と呟いて、巨体を揺らして立去ったような気になってくる。
 それが、色川武大を見た最後である。(「色川武大追悼」『吉行淳之介ベスト・エッセイ』所収pp.318-19)

 向田邦子の爆死のとき、小さな酒場で色川武大に会った。彼は血走った目で私に「こんなにツキまくってるときにオンボロ飛行機に乗る莫迦がいるかよ」と、憤るように言った。人生九勝六敗説もしくは八勝七敗説を唱える彼は、幸と不幸は綯交ぜになっていると信じていた。彼は昭和六十三年、生涯の最高傑作である『狂人日記』(読売文学賞)を書き終り、翌年、まだ寒さの厳しい東北の一都市に移住しようとして急死する。『狂人日記』を書いて、もうこれでいいやと思ったかどうか私は知らない。色川武大も昭和四年十月の生まれであって私より三歳若い。私の定義から少しずれるが、二人とも怖しい位に早熟であったので、心情は戦中派であったに違いないと思っている。(「ある戦中派」『山口瞳ベスト・エッセイ』所収pp.65-66)

 ちなみに色川のエッセイ選集には、「九勝六敗を狙え――の章」が収めてあって、そこに、「名前を出してわるいんだけれども、向田邦子さん、仕事に油(ママ)が乗りきって書く物皆大当たり、人気絶頂、全勝街道を突っ走る勢いだった。それで、飛行機事故。/向田さんはばくち打ちじゃないんだから、悲運の事故ということだ。/けれども、もしばくち打ちが飛行機事故にあったら、不運ではなくて、やっぱり、エラーなんだな」(p.49)、とある。
 共通して登場するのは色川だけではない。例えば山口が「十返肇さんが、亡くなる二年前ごろ、一ト月に一冊は古典文学を読むことにしていると語ったことがある。そういう思いも、よく理解できた」(「活字中毒者の一日」『山口瞳ベスト・エッセイ』p.237)と言及する十返肇については、吉行が「実感的十返肇論」(『吉行淳之介ベスト・エッセイ』pp.324-41)で論じているし*3、山口が「これも友人の一人である村島健一さんが「作家との一時間」という企画で、藤原審爾さんにインタビューを試みたときに、藤原さんが、好きな人間として「バカ人間」というのをあげておられた。「ダメ人間」であったかもしれない。/その後、藤原さんにお目にかかったときに、あれは小説の題になりますねと申しあげた記憶がある」(「元祖『マジメ人間』大いに怒る」『山口瞳ベスト・エッセイ』p.53)と記した藤原審爾に関しては、色川が「藤原審爾さん」(『色川武大阿佐田哲也ベスト・エッセイ』pp.280-88)という追悼文をものしているし、また田中が、「川上宗薫も、なにしろ、国電の吊革にぶらさがって、となりにきたガキみたいな女のコを口説くという見さかいのない実戦派だから、こんなのといっしょにいたら、失神遺恨のある男性に、いつ、どんなインネンをふっかけられ、そのとばっちりをうけるかわからない」(『田中小実昌ベスト・エッセイ』「優雅な仲間たち」p.33)とおもしろおかしく評する川上宗薫については、色川が「川上宗薫さん」(『色川武大阿佐田哲也ベスト・エッセイ』pp.297-306)という追悼的回想文を書いている。
――と、このように互いに同じ人物の出てくる記述がみられるのは、この著者たちが同年代で交流もあったから当然といえば当然なのかもしれないが、編者が挙って人物回想記や交遊録を択んで採っているというのは興味深いことである。
 酒や食味、趣味や遊びに関するエッセイ、ときには「怒り」や「毒」を含んだ批評的な随筆も、もちろんそれぞれにおもしろいのだが、この世代のエッセイは人物に関するものこそが最もおもしろい、と云ったら、それは言い過ぎになるだろうか。
 なお吉行は、「(昭和)四十九年から色川武大の名で短篇連作「怪しい来客簿」を『話の特集』に載せはじめた。これは、私の最も好きな作品である」(「色川武大追悼」『吉行淳之介ベスト・エッセイ』p.317)と書いており、山口もまた「僕は『怪しい来客簿』を読んだとき、オーバーに言えば驚倒し昭和文学史に残る名作だと思った。家へ来る誰彼なしに吹聴し、本欄では「即刻書店へ行って買い給え」といったうわずった原稿を書いてしまった。ずっと後になって色川さんはそれを何度も何度も読みかえしたと語ってくれた。『怪しい来客簿』は生の根元に迫るものである。全体に一種異様な悲しみと戦慄に満ちている。これが直木賞に落選したとき僕は本気になって腹を立てた」(「色川武大さん」『山口瞳ベスト・エッセイ』p.356)、と書いている。
 この『怪しい来客簿』、わたしも初読で衝撃を受けたくちで、角川文庫版と文春文庫版とをもっているのだが、上の記述に触発されて、また読み返そうと、今まさに再び手に取ったところである。

怪しい来客簿 (文春文庫)

怪しい来客簿 (文春文庫)

*1:わたしは、コミさんの全6冊のうち第1〜5巻だけ、何年も前に在庫僅少フェアでなんとか入手することができたのだけれど、その他は気がつけばいつの間にか品切になっていた。

*2:昨秋、日下三蔵編の短篇傑作選が出て、この4月には『夜の終る時』が他の短篇と抱き合わせでちくま文庫に入るという。『夜の終る時』は結城の“悪徳刑事もの”の一作だが、わたしは『終着駅』などと並ぶ名作だと思っている。かつて岸谷五朗主演で映像化されたことがあるが(それ以前には永島敏行主演でドラマ化されたこともあるらしいが)、うっかり録画しそびれて、以来、残念ながら見ることを得ていない。

*3:p.85には、「(父親のエイスケが)近所に下宿していた十返肇たちと麻雀ばかりやっていた」(「断片的に」)ともある。

『女と刀』のことから

 「明治150年」であるためか、日本近代関連書の出版や復刊が相次いでいる。大河ドラマの「西郷(せご)どん」(林真理子原作)関係はもちろん、たとえば中公文庫でも、石光真清の手記が新編集で復刊されたり*1、橋本昌樹の『田原坂』が増補新版で刊行されたり*2している。
 この流れに乗って、中村きい子『女と刀』(講談社文庫1976←カッパ・ノベルスジャイアントエディション1966)も復刊してくれないものだろうか、と思う。
 語り手の「わたし」=キヲ*3は、西南の役(明治10〈1877〉年)の5年後、鹿児島・黒葛原(つづらばら)で年貢取締りの実権を有した名頭(みょうず)の権領司(ごんりょうじ)家の直左衛門とエイとの間に長女として生れた。薩摩の一外城(とじょう)士族の出ではあるが、里では「有士(きけて)」といわれる立場にあり、城下士族も一目置く存在であったらしい。
 直左衛門は、西郷隆盛のもとで西南の役を戦い、「熊本鎮台を踏みしだく意気で、熊本城を攻めた」(p.21、講談社文庫版。以下同)経験をもつ。この「十年のいくさ」で「日本」そのものに敗北したことが、直左衛門の生涯を決定づけており、彼の子育ても、時代に抗して「野(や)にある権領司という郷士の『鋼』の精神をうちこんでおかねばならぬ」(p.27)といった信念のもとで行う劇しいものであった。
 ゆえに娘のキヲも、「世間のしきたりに抗って生き」る(p.78)ことを信条としている。それは、「士族という身分によりいっそうの強い誇りをも」ちながら(p.98)*4、一方で「血の体制(まとまり)」なる羈絆を否定し、「おのれの血ひといろに染めあげていくという、そのたたかいにかぎりない執着をもつ」(p.248)といった強烈な自家撞著でもある。誤解をおそれずに云えば、主人公は、近世以来の国家体制と近代的自我の自律性との間で引き裂かれているように見える。しかしキヲが、作品冒頭で「名頭の役」「名頭という役目」をしきりに強調していることから、これがそもそも古来の強制性を伴う「役」ではなく、個人の存在意義を支える「役」であったことが知られるのであって、そうだとすれば、「士族という身分」「おのれの血ひといろ」は、キヲの精神に容易に同居しうるものだったといえる。
 尾藤正英氏によると、日本近世の「役」は、「自発的に、その責任を果たすことに誇りを感じて、遂行されるような義務」、「それぞれの身分に所属していることの象徴的表現とでもいうべき性格が強く(略)個人の自発性に支えられたもの」であり(「序説 日本史の時代区分」『江戸時代とはなにか―日本史上の近世と近代』岩波現代文庫2006:22-23*5)、その点から、強制性を有する古来の「役」とは区別されるという。そしてこれを、日本独特の「『役(やく)』の観念」と位置づけている。キヲは生涯、古来の「役」を引きずった「日本」そのものと対峙し、それに反撥し続けたとも解釈できるのではないか。
 この作品で特に「読みどころ」となるのは、太平洋戦争末期、キヲが自らの末娘の名古屋行きを阻止せんと、その末娘・成に刀をつきつける場面(pp.280-83)であろうが、そこでキヲが持ち出すのが、「十年のいくさ」というイエにとっての「痛苦の歴史」である。そして、「日本」とアメリカとの戦争を「わたしのいくさではないこのいくさ」(p.282)と突き放してみせる。しかるに、戦後に至ってもキヲは、父親がかつて「文明開化」を軽蔑したのと同じように、「民主主義なるもの」を否定し去るのだ(pp.292-93)。
 いわゆる“名文”ではないし、独特の方言も頻出するし*6、「種子田(たねだ)という人のもとに私淑した」(p.169)といった表現があったりもするが、とにかく形容しがたい迫力に満ちた小説なのである。
 講談社文庫版の解説(鶴見俊輔)は、次のように評している。

 この本には、明治以後の百年を、この本一冊によって見かえすほどの力がある。明治百年が日本の男が表にたって指導した歴史であったことと考えあわせるならば、明治以後の日本の男たち全体を見かえす力がある。その明治百年が、敗戦後の年月をふくめていることは勿論のことで、この本は、戦後民主主義批判の書でもある。戦後日本の民主主義を批判するだけでなく、地上のさまざまの民主主義のそだてやすい人間性のもろさを見すえてしかりつけるようなきびしさをそなえている。
 そのしかりつける語り口は、男にだけむけられるものではない。女もまたしかりつけるだけの公平さをもっている。こうしかりつけられていてはかなわないという感想も、時にはわいてくるのだけれども、男はみなよくない、女は正しいというような思想によって書かれた本ではなく、人間全体をしかりつけるすがすがしい語り口に感動する。(p.335)*7

 「明治以後の百年を、この本一冊によって見かえすほどの力がある」など、いささか評価が高すぎるようにも思うが、鶴見氏はこの作品にかなり感銘を受けたらしい。たとえば加藤典洋氏は、鶴見俊輔『文章心得帖』(ちくま学芸文庫2013)の文庫版解説「火の用心―文章の心得について」*8で、次のように述べている。

 私は一九八〇年代半ばから九五年の休刊にいたるあいだ、『思想の科学』の編集委員として鶴見さんとおつきあいさせていただいた。その間、書き手として個人的に、鶴見さんにこれを読め、そしてこれについて書け、といわれた本が二冊ある。一つは中村きい子の『女と刀』、もう一つは、仁木靖武の『戦塵』である。ともにそれほど名高いものではない。特に後者は私家版の戦記。なぜということはいわれなかったし、聞かなかった。この二つの本は、読んで書くのが大変だった。ごろごろと石だらけの土地を開墾し、耕作地に変えて、それから種を播き、収穫するような難儀さがあった。(pp.215-16)

 『女と刀』は、1967年にTBS系の「木下惠介アワー」枠でドラマ化された(中原ひとみ主演)。その脚色に携わったのが山田太一氏で、山田氏の『月日の残像』(新潮文庫2016←新潮社2013)には、まさに「『女と刀』」という一文*9が収めてある。
 山田氏も、前述のキヲと末娘とが対峙する場面を紹介している。

 父の無念は、「意向」を「こころ」といい替えられて、主人公に伝えられて行く。第二次大戦の敗色が濃くなるころになっても、これは大久保(利通―引用者)たちのつくった「日本」の不始末で、かかわりなどあるものか、と軍需工場へ行って国のために戦うという娘に、主人公は刀をつきつけて行かせぬといって押し通す。周囲から非国民呼ばわりされても「なんとよばれようがわたしゃ覚悟のうえでやったことじゃよ」と動じない。(p.157)

 さて山田氏の「『女と刀』」は、彼がかつて書いた随筆のことから書き起こされている。

 ほぼ三十年前の、短い私の随筆が、ある新聞のコラムで、要約という形で言及された。その内容に「何故そんなことをいうのか」という数通の反応があった。おかげで忘れかけていた自分の文章を読むことになった。
 私なりに要約すると、湘南電車の四人掛けの席で、中年の男が他の三人(老人と若い女性と私)に、いろいろ話しかけて来たのである。(略)
 ところがやがて、バナナをカバンからとり出し、お食べなさいよ、と一本ずつさし出したのである。私は断った。「遠慮じゃない。欲しくないから」「まあ、ここへ置くから」と男はかまわず窓際へ一本バナナを置いた。
 食べている老人に「おいしいでしょう」という。娘さんにもいう。「ええ」「ほら、おいしいんだから、お食べなさいって」と妙にしつこいのだ。「どうして食べないのかなあ」
 そのうち食べ終えた老人までが置いたままのバナナを気にして「いただきなさいよ。せっかくなごやかに話していたのに、あんたいけないよ」といい出す。
 そのコラムの要約は「貰って食べた人を非難する気はないが、たちまち『なごやかになれる』人々がなんだか怖いのである」という私の文章の引用でまとめられている。(pp.153-54)

 そして、これを受けるかたちで、

 私はかつて「なごやかになれない人」の結晶のような人物を描いた小説をテレビドラマに脚色したことがある。脚本家になって一年目のことだった。鹿児島の作家・中村きい子さんの「女と刀」である。企画は木下恵介さん、はじめの三回は木下さんが書き、あとを引き継いで三十分二十六回のドラマだった。(p.155)

と書き、「もしこれが映画だったら、木下恵介監督の代表作の一つになったかもしれないと、ひそかに思っている」(p.159)と記しているのである。
 ちなみに、山田氏の「短い私の随筆」というのは「車中のバナナ」で、一昨年の三月に出た『昭和を生きて来た―山田太一エッセイ・コレクション』(河出文庫)に収められ、さらに昨秋には、頭木弘樹編『絶望図書館―立ち直れそうもないとき、心に寄り添ってくれる12の物語』(ちくま文庫)にも収められた。編者の頭木氏は、作品解説を兼ねたあとがきで、「私は、このたった三ページの作品が、好きでたまりません。/なぜといって、『これこそ、私が人間関係で苦しんできたことだ!』という典型的な状況が、見事に表現されているからです」(p.350)と評し、『月日の残像』にその後日譚が書かれていることに言及している。
 わたしがこの『月日の残像』に触発されて再読したのが、フェルナンド・ペソア澤田直訳『[新編]不穏の書、断章』(平凡社ライブラリー2013)なのだが、それについては、また稿(項?)を改めて述べることにしたい。

女と刀 (講談社文庫)

女と刀 (講談社文庫)

江戸時代とはなにか―日本史上の近世と近代 (岩波現代文庫)

江戸時代とはなにか―日本史上の近世と近代 (岩波現代文庫)

月日の残像 (新潮文庫)

月日の残像 (新潮文庫)

*1:真清による短篇小説や手記(いずれも初公開)などを新たに附している。

*2:旧版は、裏表紙に松本清張の短い評言(節略)が載っているだけだったが、新版はこれが増補部に収録されている。

*3:作者の母親をモデルにしている。

*4:「ザイ(平民)」に対する優越も独白のそこここに表れている。

*5:また同書所収「江戸時代の社会と政治思想の特質」pp.39-45など参照のこと。

*6:「濃ゆい」「胸のこまか(度胸の小さな)」などはまさにそれをよく表すものだろう。

*7:のち『鶴見俊輔書評集成2 1970-1987』(みすず書房2007)に収む。

*8:潮文庫版(1985刊)の再録か?

*9:初出は季刊誌「考える人」(2008.11)。