張岱(ちょうたい)著/松枝茂夫訳『陶庵夢憶』(岩波文庫1981)という、滋味あふれる明代の随筆集がある。気が向いたときに、時々本棚から取り出しては読む。とりわけ「三代の蔵書」(巻二、pp.105-07)、「韻山」(巻六、pp.230-32)あたりが気に入っている。
当時の江南地方の飲食や風習に関する記述も読んで面白く、たとえば篠田一士『グルメのための文藝読本』(朝日文庫1986)は、「蜜柑」という文章でこれを取り上げて、
(張岱が―引用者)四十余年をかけて書きつづけた明末の歴史『石匱(せきき)書後集』は中国史書の傑作だが、晩年、往時を回想して書きつづった小品集『陶庵夢憶(とうあんむおく)』も、また、抒情的エッセーの逸品として忘れることはできない。ここには明末のはなやかな世相風俗のさまざまな局面が作者の経験にもとづいてえがかれていて、もちろん、口腹の楽しみについても、筆を惜しんではいない。
この種の文人にしては、めずらしく下戸だったが、食べ物については、食通にふさわしい旺盛な好奇心と食い意地が張っていたようで、「各地のうまいもの」と題する一篇を読むと、生地の紹興のある浙江省一帯はいうまでもなく、北は北京や山東、南は福建などの各地から、それぞれ名物を取り寄せていることが、品目の一覧表によって明らかである。(p.292)
と書いている。しかしこの『陶庵夢憶』、訳者の松枝にいわせると、「文章が恐ろしくむずかしく、(北京に留学していた二十代後半頃は―引用者)てんで歯が立たなかった」(p.9)。そこで、張岱の同郷人でもあった周作人(魯迅の弟)に、「字句のわからぬ個所についても質問した」(「あとがき」p.377)ことがあるのだそうだ。
松枝の「まえがき」によると、『陶庵夢憶』の版本には二種――「硯雲甲編」に収められた一巻本(短文四十三條)と、王文誥(おうぶんこう、字は見大)の序のある八巻本(百二十三條)とがあるという。重複は三十九條。咸豊五年(1855)には、「粤雅堂叢書」に後者の八巻本が収められ、兪平伯の校点本(1927刊)、台静農の校点本(1958刊)などはみなこれに拠るというが、粤雅堂叢書本しかり校点本しかり、残念なことに誤植が少なからずあったらしい。
松枝が『陶庵夢憶』に初めて触れたのは、1930年、北京大学の近くにあった小さな本屋・景山書社で、樸社刊の兪平伯校点本を見つけたことによる。これに周作人が序文を寄せていたらしい。周は、当時殆ど忘れられていた張岱を、『中国新文学の源流』などの書物によって再び世に知らしめたという。
ちなみに景山書社や樸社に関しては、松枝が「あとがき」で次のように記している。
この景山書社(けいざんしょしゃ)という本屋では妙に面白い本を売っていた。樸社(ぼくしゃ)出版部の出版物が多かった。すぐ店の前の道を隔てた筋向いに「樸社出版部」と書いた看板が掛かっていた。兪平伯とか顧頡剛(こけつごう)とか、北京大学の若い優秀な学徒たちがこの中にたむろしているのだなあと、私はこの店にくるたびにその緑色の五字を眺めながら感慨にふけったものだった。
樸社の出版物はみな毛色が変っていた。うしろに付載されている出版書目を見ても、売れそうにもない本ばかり並んでいる。しかしそこに樸社の人々の利益を度外視したいちずな心意気がうかがわれた。それらの中に顧頡剛の『古史辨(こしべん)』があり、兪平伯の校点した『浮生六記』や『陶庵夢憶』があり、あるいは王国維(おうこくい)の『人間詞話(じんかんしわ)』等々があった。いずれも情熱の書というにふさわしく、人を魅きつける何ものかがあった。樸社の人々の学問や文学の対するひたむきな愛情がこうした本を選ばせたのだと思われた。(p.373)
文中の顧頡剛『古史辨』*1は、特に第一冊に附された「自序」が著名で、オランダの「ライデン・シナ叢書」(Sinica Leidensia)の一冊目に加えられたといい、西洋でもよく知られているそうだが、邦訳としても、顧頡剛著/平岡武夫訳『ある歴史家の生い立ち―古史辨自序―』(岩波文庫1987)がある。その「文庫版あとがき」(平岡)は、樸社の由来にも触れているので、ついでながら引用しておく。
最も興味深いのは、樸社の成立である。上海で、沈雁冰(しんがんひょう)・胡愈之(こゆし)・周予同(しゅうよどう)・葉聖陶(しょうせいとう)・王伯祥(おうはくしょう)・鄭振鐸(ていしんたく)・兪平伯(ゆへいはく)らが、文学研究会に集まって閑談しているうちに、我々が本を書いて商務印書館に儲けさせておくことはない、自前で出版しよう、と鄭振鐸が言い出し、みなが賛成して、月に各人十元を積み立てることにした。「樸社」の名は、清朝の樸字から取った。周予同の提案による。顧氏が総幹事に推された。この企ては、二年の後に、上海における戦禍のために解散した。顧氏と兪平伯が北平において更めて范文瀾(はんぶんらん)・馮友蘭(ふうゆうらん)・潘家洵(ばんかじゅん)ら十人と謀り、積み立てること一年、北京大学の向いに三間の小房を借りて「景山書社」を開いた。そして『古史辨』第一冊を出版した。売れ行き甚だよく、一年の間に二十版を重ねた。(p.232)
さて平岡による『古史辨』自序の初訳は、もと「昭和十五年五月に『創元支那叢書』の一つとして刊行された」(「新書版あとがき」p.198)。
「創元支那叢書」というシリーズの存在は確かこのあとがきで知ったのだったが、同叢書の第五冊、周作人/松枝茂夫譯『瓜豆集』(創元社1940)をのちに均一棚で入手したことがある*2。これはしかし完訳ではなく、巻頭の「譯者のことば」には、
譯者は初め本書の全譯をなすつもりであつたが、途中又考へがかはり、都合により四篇だけ省略することにした。『日本文化を談ずるの書の二』『童二樹に關して』『邵無恙に關して』『年寄の冷水』がこれである。無くとも大旨はきずつけぬと信じてゐる。(pp.7-8)
とある。このうちの二篇、「日本文化を談ずるの書の二」「年寄の冷水」は、現在、周作人/木山英雄編訳『日本談義集』(平凡社東洋文庫2002)で邦訳を読むことができる*3。
同書での邦題はそれぞれ「日本文化を語る手紙(その二)」「年寄りの冷水」となっていて、これらが邦訳版『瓜豆集』で省かれたのは、読んでみると判るのだが、恐らく、日本あるいは特定の日本人を激越な調子で批判しているからで、時局がそれを許さなかったものと思われる。
もっとも、省略されなかった文章のなかにも日本を批判したくだりが少し含まれている。しかしそれも訳出されていない。たとえば「日本文化を談るの書」に、「譬へば『源氏物語』や浮世繪を鑑賞できる者でも、(削除)必ずやたゞ醜惡愚劣を感ずるだけでせう」(p.117)とあるところ、『日本談義集』所収の「日本文化を語る手紙」を見ると、「例えば『源氏物語』や浮世絵を鑑賞できるものが、柳条溝、満州国、蔵本失踪、華北自治それに密貿易などを見れば、醜悪愚劣としか感じられぬでしょう」(p.257)、となっている。
そういった日本批判がみられるのも、「知日家」周作人なればこそなのだろうが、この一月から刊行され始めた中島長文訳注『周作人読書雑記』(全五冊、既刊は二冊)を見ると、周は、日本の書物や中国の古典だけでなく西洋の書物もバランスよく読みこなす読書人であったことがうかがい知られる。
上記との関連でいうと、「東京の書店」(第一巻、pp.112-20)など『瓜豆集』に収められた文章の新訳のほか、「王見大本『夢憶』」(第二巻、pp.270-72)も収められている。『夢憶』はすなわち『陶庵夢憶』のことだが、これは先に述べた、兪平伯校点本に附された序とは別のものであろう*4(『書房一角』〈1944刊〉に収められた文章であるらしい)。当該文は、周が最初に入手した甲寅(乾隆五十九年=1794)本や、「最近」入手した王文誥本の書誌について記しており、短いながら、『陶庵夢憶』諸本系統の考察の一助になる。
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