甦る黒島伝治

 紅野謙介編『黒島伝治作品集』が岩波文庫に入ったので、早速求めた。プロレタリア系作家の作品集というと、5月には同じ岩波文庫から、道籏泰三編『葉山嘉樹短篇集』も出ている。
 黒島伝治の作品に初めて触れたきっかけは単純で、父の蔵書に集英社版日本文学全集があり、そのうちの個人名の選集ではない名作選集に、「二銭銅貨」という、そのころ(四半世紀ほど前)私が入れ込んでいた江戸川乱歩の作品と同タイトルの短篇が収められていて興味を懐いたからで、それがまさに、偶々伝治の作品だったというわけなのである。もっとも、大正十五年一月の発表時(初出:「文藝戦線」)は、「二銭銅貨」ではなく「銅貨二銭」という題名であった。
 とまれ伝治の「二銭銅貨」との出会いはなかなかに衝撃的で、その内容とともに作家名が強く印象されたので、某古書肆の店頭百均で黒島傳治『渦巻ける烏の群 他三篇』(岩波文庫1953)を拾ったり*1、別の店の三百均では黒島伝治遺稿/壺井繁治編『軍隊日記―星の下を』(理論社1955)を見つけて購ったりした。岩波文庫で読んだ「渦巻ける烏の群」や「豚群」にもまた感銘し、『軍隊日記』では、終始激越な調子のうちに亡き思人への恋情や切実な読書慾が吐露されているのを微笑ましく思うなどした。
 するうち、山本善行選『瀬戸内海のスケッチ 黒島伝治作品集』(サウダージ・ブックス2013)が出た。上林暁や埴原一亟の作品集を編んだ山本氏の「読み巧者」ぶりは際立っていて、「私は、黒島伝治にまとわり付く、農民文学、プロレタリア文学反戦文学などのイメージをまずは取り除き、ま新しい目で全集を再読することから作品選びを始めた」「この作品集で、黒島伝治作品の底に流れている、さわやかな瀬戸内の風を感じ取っていただけたら、選者としてうれしく思う」(p.244)と選者解説にもあるとおり、伝治の知られざる一面に光を当てた作品集となっている。「砂糖泥棒」「田園挽歌」「本をたずねて」はこの本で初めて読み、特に気に入った。nakaban氏の美しい装画も、伝治作品のイメージを一新するのに与って力があった。
 その4年後には、黒島伝治『橇/豚群』(講談社文芸文庫2017)が出た。表題作のほか8篇、計10篇を収めている。この間にも、『日本文学100年の名作 第2巻 幸福の持参者』(新潮文庫)で「渦巻ける烏の群」を再読したり、『教科書で読む名作 セメント樽の中の手紙ほか―プロレタリア文学』(ちくま文庫)で「二銭銅貨」を三読したりしたが、大西巨人編『日本掌編小説秀作選(下) 花・暦篇』(光文社文庫1987)で読んだ黒島伝治「その手」も、一読忘れがたいものであった。タイトルの「その手」の意味するところは、「その手は桑名の…」の「その手」なのだが、物語の末尾での爆発、すなわち大西のいう「『親爺』の自然発生的な反抗の噴出」(p.284)が小気味よかった。
 文芸文庫の『橇/豚群』には、山本氏が最後まで選集に入れるかどうか迷ったという「彼等の一生」も収められていたので、店頭で見掛けるなり直ぐに買い、これも舐めるようにして読んだ。同文庫の解説を担当した勝又浩氏も、「今度、黒島作品を集中して読んで改めて、これらは歴史的なプロレタリア文学という枠に捉われず、もっと広い時代の文学の上に置いて読まれるべきだ」「農民文学、プロレタリア文学という枠を外してみれば、作品のふくんださまざまに人間的、歴史的時代的な影も浮かび上がってくる」(p.234、p.236)などと述べ、伝治の作品群の普遍性をやはり強調している。
 そもそもわたし自身に、「黒島伝治プロレタリア文学作家」という予備知識があったなら、恐らく敬して遠ざけていたことだろう。それに伝治の文庫の内容紹介を読んでみると、概してつまらなそうなのだ。手に取る気さえしなかったに相違ない。しかし実際は、どの作品も読む悦びを充足するものだと思っている。文学全集のなかの「二銭銅貨」がいりくちだったことは幸いであった*2
 ちなみに、『橇/豚群』の帯文は荒俣宏氏が書いており、「不条理を超える『無常』を夢映画のように語れた才能!」などとある。その荒俣氏には、『プロレタリア文学はものすごい』(平凡社新書2000)という著作があって、伝治の「二銭銅貨」も取り上げている。荒俣氏はその内容紹介をしつつ、同作品については、「もはや慄然とするほかない。これは単なる労働者階級の悲嘆を超えている。人間の運命ないし宿世を語った哲学小説と呼ぶべきかもしれない。いや、「山椒太夫」のような中世の説経節の偉大な末裔と称してもよい」「階級闘争をはるかに超えて縁起本覚論の世界にまで達した作品」(pp.58-59)などと評している(さらに面白いのは、これを乱歩の「二銭銅貨」と対比させながら作品の位置づけを行っているということだ)。
 荒俣氏はこの本で、たとえばプロ文の代表作とも見なされる小林多喜二の『蟹工船』に「ホラー小説」「スプラッターホラー」といった側面があることを見出しているのだが、プロ文に多かれ少なかれそのような傾向があることを伝治も自覚していたのか、半ば自虐的に、次のごとく述べている。

 一体、プロレタリア作家は、誰でも人を殺したり、手や足をもぎ取ることが好きである。彼も、その一人である。まるで、人を殺さなければ小説が出来ないもののように、百姓も殺せば、子供も殺す。パルチザンでも、朝鮮人でも、日本人でも、誰でも、かれでも殺してよろこんで居る。「橇」とか「パルチザン・ウォルコフ」などを見れば、これはすぐうなずける。彼はまた、「二銭銅貨」では子供を殺している。彼の殺し方は、なかなかむごたらしい。「穴」の中の、朝鮮の老人などがその一つの例である。――あんなにまでして殺さなくてもよかりそうなものだ。(「自画像」『黒島伝治作品集』所収:298)

 文中の「彼」は、いうまでもなく伝治自身のことであるが、「あんなにまでして殺さなくてもよかりそうなものだ」と云いながら、一種独特のユーモアさえ漂わせている。たとえば「豚群」もそうだが、たくまざるものか、はたまた敢えてそうしたものか判然しないが、役人たちが豚を逐いまわす場面など、何ともいえない可笑しみがある。「橇」という、およそユーモアの欠片さえなさそうな状況を描いた小説であっても、吹き出しそうになる描写が少なからずある。
 伝治が「プロレタリア文学」という時代の枠組みにとらわれず自在に作品を書いていたら、今よりもずっと高く評価される作家となっていたに違いない。

*1:此度の『黒島伝治作品集』は、この『渦巻ける烏の群』以来の伝治作品の岩波文庫入りなのであった。実に68年ぶりのことだ。

*2:ちなみに通貨としての二銭銅貨については、乱歩が「直径三センチ余、厚さ四ミリほどの、どっしりと重い銅貨であった」と書き、また永井龍男が「ひと昔とでもいったような懐しい重みを持っているように感じられる」(「黒い御飯」)と書いている。一体どんなものかと興味が湧き、縁日で古銭商からひとつ購ってみたことが有る。意想外にズッシリしていた。今も大事にとってある。

谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』、木村恵吾『瘋癲老人日記』

 谷崎潤一郎『瘋癲(ふうてん)老人日記』*1は、20年ほどまえ小林信彦氏の評に導かれるようにして読んだのがたしか最初であったが、最近、宇能鴻一郎『姫君を喰う話―宇能鴻一郎傑作短編集』(新潮文庫)の「解説」(篠田節子)に、〈「雲のかなたにそびえる高峰」と宇能鴻一郎が讃える文豪谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」で、自分が執心する嫁の足形を墓石に刻みつけ、死後も踏まれ続けることを切望する老人が登場するのだが、本書では銅板に刻みつけられたキリストを無垢な若い花魁の生身の足が踏みつける〉(p.372)云々とあるのを読んで触発され、じっくり再読(正確には三度め)した。
 手許に『瘋癲老人日記』のテクストは二種あって、ひとつは『鍵・瘋癲老人日記』(新潮文庫2001改版)、いまひとつは函入再版本(1962年5月刊)の『瘋癲老人日記』(中央公論社)である。後者は『鍵』がそうであったように装釘を棟方志功が担い、志功の板画も収めてある*2。今回再読したのは携帯に便利な新潮文庫版の方だったが、少なくとも2箇所、本文で片仮名表記とすべきところを平仮名にしている誤記に気づいた(p.255「血圧が二〇〇ヲ越スクライニ」、p.348「男性的に結跏趺坐シテイル」)。と、これは餘談。
 それから偶然にも、木村恵吾監督の『瘋癲老人日記』(1962大映)を、こちらは初めて観る機会に恵まれたのだった*3。観た感想はというと、原作の卯木督助の人物造形はかなり変えてあったが、山村聰の「怪演」は実にすばらしく、若尾文子の颯子もなかなかよかった。さるところでこの映画が「コメディ」に分類されていたのも宜なるかなと思った。
 督助の人物造形を変えたというのは、原作で「芸術批評の一見識を持っている」「演劇にも一家言を持っている」(山本健吉)人物として描いていたのを、映画ではすっかり削ぎ落したということなのだが、原作における督助による批評の具体的な内容は次のごとくである。

 七十七歳の督助は、たとえば、永井荷風の書と漢詩はさして巧みではなけれども、彼の小説は自分の愛読書だ、というような芸術批評の一見識を持っている。あるいはまた、勘弥の助六は感心しないが、訥升(とっしょう)の揚巻は充分感心したとか、団子(今の猿之助*4)の治兵衛は緊張し過ぎてこちこちであり、訥升の小春は綺麗だが揚巻ほどではないとか、演劇にも一家言を持っている。相当以上に洗練された教養と趣味との持主であることが、これらによってほのめかされるのであって、その精神生活の面が全然切り捨てられている『鍵』の主人公とは、その点でまず同じでない。(山本健吉「解説」、p.444)

 それに督助の部屋には、「青磁ノ水盤ニ縞ススキト三白草ト泡盛草ガ活ケテア」ったり「長尾雨山ノ書」が掲げてあったりするし(p.198)、日本画家の菅楯彦については「ヨク漢詩ヤ和歌ヲ書キ添エル癖ガアル」(p.331)などと評したりもする。このような内面は、映画では全くといってよいほど描かれていない。したがって映画版の督助は、はっきり言って、単なる助平爺のように見えてしまう。しかしそのことが、督助の執着心のみクロース・アップさせることにつながり、作品に妙ななまなましさを与えているのも事実である。
 ところで、山本のいう「勘弥の助六」「訥升の揚巻」は原作の冒頭に出て来る話題なので、とりわけ印象的である。当該部を引く。

十六日。………夜新宿ノ第一劇場夜ノ部ヲ見ニ行ク。出シ物ハ「恩讐の彼方へ」「彦市ばなし」「助六曲輪菊(すけろくくるわのももよぐさ)」デアルガ他ノモノハ見ズ、助六ダケガ目的デアル。勘弥ノ助六デハ物足リナイガ、訥升ガ揚巻ヲスルト云ウノデ、ソレガドンナニ美シイカト思イ、助六ヨリモ揚巻ノ方ニ惹カレタノデアル。(略)トニカク予ハ助六ノ芝居ガ好キナノデ、助六ガ出ルト聞クト、勘弥ノデモ見ニ行キタクナル。況ンヤ御贔屓ノ訥升ガ見ラレルニ於テヲヤ。
勘弥ノ助六ハ初役デアロウガ、ヤハリドウモ感心出来ナイ。勘弥ニ限ラズ、近頃ノ助六ハ皆脚ニタイツヲ穿ク。時々タイツニ皺ガ寄ッタリシテイル。コレハ甚ダ感興ヲ殺グ。アレハ是非素脚ニ白粉ヲ塗ッテ貰イタイ。
訥升ノ揚巻ハ十分満足シタ。コレダケデモ来タ甲斐ガアルト思ッタ。福助時代ノ昔ノ歌右衛門ハイザ知ラズ、近頃コンナ美シイ揚巻ヲ見タコトハナイ*5。(pp.176-77)

 「助六曲輪菊」は、市川家十八番(七代目団十郎が指定)の一、「助六所縁(由縁)江戸桜(すけろくゆかりのえどざぐら)」の外題でむしろ知られるが、「助六曲輪菊」は六代目菊五郎助六の花道登場時の河東節を清元節に代えて上場したものという。助六(実は曾我五郎)と恋仲の三浦屋揚巻は女形の大役とされ、

 揚巻は、美貌・伝法・貫目と三拍子揃った女形でなければ完璧でなく、そういった俳優は五代目岩井半四郎以来皆無とされる。助六以上の難役である。いわば五丁町の運命を支配する女王だからである。(金沢康隆『歌舞伎名作事典』青蛙房1959:164)

などともいわれる。訥升=揚巻の話も映画には出てこないものの、勘弥=助六についての話は劇中に出て来る。もっとも、それもやはり督助の言ではなくて、その妻を演じる東山千栄子と主治医に扮する永井智雄との会話のなかに、やや唐突に次の様なかたちで出て来る。

東山千栄子「勘弥の助六観ましたけど、大したことありませんでしたね。勘弥に限らず、みんな近頃の助六は足にタイツを穿いていますが、あれはやはり……素足に白粉を塗ってもらいたいものですねえ」
永井智雄「タイツに皺が寄りましたんではね」

 「芸術批評」と言いうるものは、劇中では上記のやり取りに限られる。なお「助六のタイツ」に関しては、谷崎自身、かなりの不快感を懐いていた様子で、別のところでも次のように述べている。

ところで、近頃の助六は不精をして素脚に白粉を塗らず、タイツを穿いてゐる場合が多い。私はあれが嫌ひなのだが、今度の(十一代目団十郎襲名披露の舞台―引用者)助六はさすがにそんな不精をせず、ほんたうに素脚を白塗りにしてゐると云ふ。さう聞いて私は安心したが、(略)白塗りにするのを面倒がつてタイツを穿いたりするやうなことから、次第に歌舞伎の醍醐味が失はれて行くのだと思ふ。(谷崎潤一郎助六の下駄」*6『雪後庵夜話』中央公論社1967所収:124-25)

 そのほか映画では、原作の細かな個々のエピソード――たとえば、颯子が鮎を食い散らかす場面*7や、督助が自分の喉が鳴る音をコオロギの鳴声だと勘違いする挿話など――をそのままなぞっている部分もあるが、そもそも映画は第三者の視点(超越的視点)から描かれているので、印象はまったく異なる。原作の語り手たる督助が登場するのは映画では開始後約13分のことだし、颯子=若尾文子の方も開始10分後くらいに至ってようやく姿を現す。日記形式のものを、そのまま映像化するのは困難だろうし、かえって画面が単調になったり説明が過剰になる印象を与えたりしかねないので、已むを得ないこととは思うが、たとえば新藤兼人『濹東綺譚』(1992)が、『断腸亭日乗』の記述を荷風津川雅彦による朗読(ナレーション)をかぶせる形で引用していたような、そういった手法もあったかも知れないとは思う。望蜀の嘆だろうが。
 ちなみに最近、『谷崎マンガ―変態アンソロジー』が文庫化されたが(中公文庫)、しりあがり寿氏が『瘋癲老人日記』とヘミングウェイ老人と海』とを組み合わせた漫画を描いており(pp.163-96)、その着想に驚かされるとともに、おもしろく読んだ。なおこの文庫には、榎本俊二氏による「青塚氏の話」も入っているが、竹本健治選『変格ミステリ傑作選【戦前篇】』(行舟文庫)で竹本氏が〈…とびきりの怪作「青塚氏の話」から、乱歩に受け継がれたテーマや発想をいくらでも見つけることができるだろう〉(p.76)などと書いていることに触発され、今度は中公文庫で「青塚氏の話」を久しぶりで(10年ぶりくらい?)読み返そうと思っているところだ。

*1:初出は「中央公論」1961.11~1962.5。

*2:ちなみに現行の中公文庫版『瘋癲老人日記』にも板画が掲載されている。

*3:同じ木村恵吾による『痴人の愛』(京マチ子宇野重吉主演)も観たことがあるが、増村保造版(安田道代〔大楠道代〕、小沢昭一主演)の方がなぜか強烈な印象を残している。中学3年という多感な時期に観たことにもよるのだろうか。なお、木村のセリフリメイク版『痴人の愛』(叶順子、船越英二主演)は未見。高林陽一『谷崎潤一郎・原作「痴人の愛」より ナオミ』(水原ゆう紀主演)は録画してあるが、まだ観ていない。

*4:「今の」とあるが、これは解説が書かれた1968年時点でのこと。現・二代目市川猿翁

*5:督助は翌(六月)十七日、訥升の小春(「河庄」)を観にゆくが、「訥升ハ今日モ綺麗デアッタガ、揚巻ノ方ガヨカッタ気ガスル」(p.182)との感想を漏らしている。

*6:初出は「朝日新聞」PR版1962.5.26付。

*7:原作では銀座の「浜作」での出来事になっているが、映画では熱海に変更されている。

琵琶のロマン

 松尾恒一『日本の民俗宗教』(ちくま新書2019)は知的好奇心をかき立てられる本だが、すこし不思議な点がある。第三章「民衆の仏教への受容」の第三節「因果応報の志操の遊行と宗教者・芸能民」に、

 中国の琵琶の音色やメロディーを考える上で注目したいのは、仏・菩薩の住む浄土の様子を描いた『浄土変相図』には、琵琶を含む、浄土での演奏の様子が見られることである。
敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)」第二二〇窟の唐代の浄土変相図の一つ『奏楽図』には、正面の高欄(こうらん)のある高舞台に仏・菩薩や天女と思われる楽人たちが座して、琵琶やほぼ円形の胴の阮咸(げんかん)(ruanxian)などの棹のある弦楽器や横笛、ハーモニカ状の排簫(はいしょう)(pai2xiao1)などの吹奏楽器を奏している様子が描かれている(図23)。(略)
 画中でひときわ目を引くのは、琵琶を背負いかつぐようにして弾く様子である。この奏法は「反弾琵琶(はんだんびわ)」と呼ばれ、現代の中国では天女が演奏するイメージが定着し、絵画や彫刻のモチーフとなって制作され、舞劇などでも、実際に女性が天女姿で演じたりする。(pp.122-24)

とあり、「浄土変相図」の一部分とされる図が掲げられているのだが(p.123)、その記述と写真とに少々疑問があるのだ。
 そのことを述べる前に、「変相図」とは何かということについて触れておこう。たとえばある概説書は次のように説く。

 隋時代以降(581年-)、敦煌ではそれまでの仏伝図や本生図といった釈迦の在世や前世の事績を描く絵画に代わり、経典に描かれる内容や仏世界を絵画化した様々な変相図(経変)が描かれるようになった。初唐・盛唐期(7-8世紀)には、維摩経変、法華経変、弥勒経変、阿弥陀浄土変、薬師浄土変、仏頂尊勝陀羅尼経変などの変相図が、窟内の壁面全体に大画面パノラマのごとく表されている。(朴亨國監修『東洋美術史』武蔵野美術大学出版局2016:276)

 同書は、同ページに「阿弥陀浄土変相図」の写真を掲げ、

 莫高窟第220窟の東壁と北壁には「貞観十六年」(642年)の墨書題記があり、本窟の壁画の制作年代はおよそこの頃と想定される。同窟南壁の画面いっぱいに阿弥陀浄土変相図が描かれている。中央に宝池から伸びる蓮華座上の阿弥陀仏が説法する様子が描かれ、左右には脇侍菩薩のほか、多数の聖衆を配する。菩薩が身にまとう裙(くん)や天衣(てんね)は薄く透けており、瓔珞(ようらく)その他の装飾も華やかである。画面左右部には楼閣や樹木、上部には雲に乗って飛来する仏や種々の楽器、下部には舞踏や奏楽する天人たちなど、画面全体には浄土を構成する様々なモティーフが色彩豊かに、かつ緻密に描き込まれる。(pp.276-77)

と解説している。ちなみに、姜亮夫『莫高窟年表』(上海古籍出版社1985)の「六四二年 唐太宗貞觀十六年壬寅」「D二二〇窟」の項を見ると、「大雲寺律師道弘造『藥師淨土變相』壁畫一鋪。(同上窟、左壁『藥師淨土變相』下端題記云;「貞觀十六年、歳次□寅、奉爲大雲寺律師道弘……造……。」)」(p.216)とあって、おやと思うが、東山健吾『敦煌三大石窟―莫高窟・西千仏洞・楡林窟』(講談社選書メチエ1996)によれば、第220窟は東壁門口の両側に「維摩詰経変」、南壁に「『仏説阿弥陀経』にもとづく大画面の阿弥陀浄土経変」、そして北壁には「『薬師如来本願功徳経』にもとづく薬師浄土経変」が描かれているといい(p.143~)、それだと『東洋美術史』の記述とも合致するので、得心が行く。
 さてその『東洋美術史』が掲げるところの「阿弥陀浄土変相図」だが(モノクロでやや小さいけれど)、どんなによく目を凝らして見てみても、「反弾琵琶」らしきものが描かれていないようなのである。
 東山著も、「反弾琵琶」について言及しているのだが、第220窟ではなく、「第112窟」(吐蕃支配期*1に造営)の「観無量寿経変」の一部だといっている。次の如くである。

 「反弾琵琶」として知られる図は、観経変の中尊阿弥陀仏前方の舞台にあらわされた舞楽段の一部である。この舞楽は、舞天一名と楽天六名で構成され、楽天の向かって左側の三名は鶏婁鼓(けいろうこ)と鼗鼓(とうこ)、横笛、拍板(はくばん)を奏し、右側の三名は箜篌(くご)、阮咸(げんかん)、琵琶を奏す。その前に設けられた平台ではさらに左右各二体の伎楽天が背中あわせに坐り、父子相迎会の阿弥陀に対して楽器を奏している。中央の舞天は頭に宝冠をのせ、半裸に胸飾り、臂釧をつけ、短袴(たんこ)をはき、天衣をひるがえして舞う。足を高くあげ、指をそらせてステップを踏みながら、身体を傾け琵琶を背にまわして弾いている。このような弾奏法を「反弾」といい、きわめて難度が高いことから絶技とされた。この図は「反弾琵琶」として著名で、莫高窟壁画中の白眉であるばかりでなく、唐代の舞踏史を研究するうえから貴重な史料とされている。(東山健吾『敦煌三大石窟』pp.174-75)

 あるいは、第220窟の維摩経変か薬師浄土変かに似たような絵が見られるのかもしれないが(そのあたりは慎重に考えなければならないところだ)、「反弾琵琶」として紹介されるのは、ふつうは東山著が挙げるように「第112窟」の「観無量寿経変」の部分としてである。なぜ松尾著は、著名な第112窟ではなく第220窟の方を紹介しているのだろうか。
 しかも、松尾著が浄土経変の一部として掲げた反弾琵琶の図は、保存状態が頗るよいので、当初は複製か何かを写したものかと思っていたところ(加えて、「観無量寿経変」の反弾琵琶とは違って下部の伎楽天二体がいない)、ネット上に公開された画像がもとになっているらしいことが判った。ちょっとわかりにくいのだが、これは右下に作者名が記されており、どうやら敦煌壁画を摸した作品であると思しい。それにその画像には、「莫高窟第220窟 舞楽図・唐」との文言も添えられている。この記述は、果して正確なものなのかどうか。
 ところで松尾著は、琵琶そのものの由来についても述べている。

 琵琶は、隋・唐代の宮廷音楽の楽器であったが、中国にとっても外来の楽器であった。隋・唐の帝国は、周辺国への版図の拡大とともに、その国の音楽・舞踊を吸収し、外国の楽器も取り込んだ。琵琶はそうした楽器の一つで、宋代、陳暘(ちんよう)著の『楽書』(一一〇一年成立)には、異国の楽である「胡楽(こがく)」の中に「琵琶・五絃琵琶」を分類している。
 単に「琵琶」と記される楽器は、中国から日本にまで広域に広まったペルシャ起源の四弦琵琶である。一方、五弦琵琶はインド起源で、その両方が中国に入ってきていたことがわかる。ちなみに古代の五弦琵琶は日本にも伝来しており、東大寺正倉院の宝物として伝えられている。現在、世界に確認されている五弦琵琶は二本だけで、そのうちの一本が日本に現存しているのである。(p.122)

 小泉文夫『日本の音―世界のなかの日本音楽』(平凡社ライブラリー1994)は、琵琶には上記の「四弦」か「五弦」かという種別に加えて、「直頸」か「曲頸」かという違いがあることを紹介している。

 日本にはいまあげた、いろいろなタイプの琵琶の音楽があるのと同じように、楽器としての琵琶も、それぞれにみな少しずつ違っていて、あるものは四弦であったり、三弦であったり、あるいは五弦であったり、また、琵琶という楽器の棹のところについている非常に丈の高い柱(じ)の数も、たとえば四柱であったり、五柱であったりというふうに、いろいろです。琵琶全体の大きさもそれぞれに違っていますし、さらにはその構造も違っています。しかしながら、こまかなヴァラエティを度外視すると、まず、棹の上端――天軫(てんじん)がうしろに曲っているということ、これが共通しています。それから柱があるということです。
 実は、日本には、もう一つの全く違う種類の琵琶があります。いままであげたものは、こまかく言えばいろいろ違っていますけれども、しかしやはり、一つのタイプ、首がうしろに曲った琵琶で、それを曲頸琵琶といいますが、もう一つのタイプというのは直頸琵琶、首が真っすぐな琵琶というものです。これは弦の数が五本あるものですから、五弦琵琶と言われ、さらにもっと簡単に五弦とも言われておりますが、この楽器はすでに述べた通り正倉院にあります。(略)この五弦というものは、いままで述べてきた、琵琶のすべてのタイプとは全く違う種類のものです。(略)
 それから今日見られる資料で重要なものはインドにあります。インドで紀元後二世紀の仏教遺跡と言われているアマラーバチというところに石に彫った浮彫がありますが、お釈迦さまの事跡を描いた構図の中に、いまの正倉院の五弦琵琶に非常によく似た形の楽器が現われています。おそらくこういうような事柄から、五弦琵琶のほうは亀茲というところは、クチャという地名になっていますが、ここから中国に伝わったということで、こういうインド系の琵琶のことを亀茲琵琶といいます。したがって日本の五弦琵琶は、この亀茲琵琶がもとであり、そしてそのもとはインドであると想像されております。(pp.167-69)

 これによれば、「五弦」かつ「直頸」のものはインド系ということになり、前引の松尾著によると「四弦」はペルシャ系、ということになるが、その通説に疑義を呈しているのが、若林忠宏氏である。

 今日、正倉院の研究者、伝統邦楽研究者のほぼ全てが、聖武天皇(在位724~749年)が中国から献上され、正倉院に収められた様々な中国撥弦楽器は「直頸五弦琵琶」「曲頸四弦琵琶」「阮咸」の三種に大別されると、疑いもなく信じていると思われます。少なくとも今まで、これに物言いを付けた記述は見当たりません。(略)
 そして「直頸五弦琵琶は古代インド系」「曲頸四弦琵琶は古代ペルシア系」といい、やや詳しい研究者は、「阮咸という円形胴の琵琶の名は、この楽器の名手であった戦国時代の竹林七賢人のひとりの名に因んだものである」といいます。これは、中国学研究者にとって重要文献とされている(私にとっては最大最悪の偽書である)『通典(つてん)』の記述によるものでしょう。
 私も五十年弱にわたる民族音楽研究の大半は、この通説を信じてきました。しかし、世界に散在する様々な琵琶系弦楽器の壁画や石彫を改めて検証すれば、そこには、遥かに壮大な「琵琶の世界」があり、正倉院の三種は、そのほんの一部に過ぎなかったことがわかったのです。
 まず、古代インド系の「直頸琵琶」ですが、確かに古代インドの琵琶は、ほぼ全て「直頸」です。しかし、そこには五弦の他、四弦も六弦も存在します。また、三蔵法師も通った、アフガニスタン東部からパキスタン北部にかけてのガンダーラ地方には、明らかな曲頸であったり微妙な曲頸であったりする楽器の他に直頸もあります。アフガニスタン西部は古代からペルシア文化圏でもありましたから、曲頸はペルシアからの移入で直頸はインドから、で話は落ち着きそうですが、ガンダーラの直頸がインドより古い可能性は皆無ではありません。
 他方、アフガニスタン以西、果てはスペインに至るまで存在する西域琵琶は、ほとんど曲頸です。そしてその伝播の出発点は、定説どおり古代ペルシアであろうと思われます。東西に広がる以前、直頸の楽器が多く存在していた各地にとって、「曲頸」のアイデア(同じ張力でも弦の余韻と立ち上がりが顕著に向上する)は古代ペルシアの大発明ともいえます。しかし、西域の曲頸琵琶には、四弦の他、五弦、六弦、七弦、八弦もあり、北アフリカでは、四弦がむしろ少数派の時代もありました。
 したがって「直頸=インド系=ほぼ正解」「曲頸=ペルシア系=正解」ですが、「五弦=直頸」「四弦=曲頸」「五弦=インド系」「四弦=ペルシア系」ということではないのです。正倉院の琵琶の「捍撥(かんばち。撥から表面板を守るための絵画で装飾した皮や布の帯)」には、「直頸四弦琵琶」もしっかり描かれています。(若林忠宏『日本の伝統楽器―知られざるルーツとその魅力』ミネルヴァ書房2019:105-06)

 なお若林著が「そもそも『リュート』は、西アジアの琵琶が伝わったもの」(p.11)と説いているように、ヨーロッパの古楽器リュート」は琵琶と親縁関係にあるらしい。小泉著も次のように書いている。

 とにかく、インドから、さらに西のほうに目を向けてみますと、たいへん琵琶によく似た楽器が現われてきます。それは今日のイラン、トルコ、あるいはアラブ諸国イラク、シリア、エジプト、モロッコなどで使われている、ウードという楽器です。このウードというのはアラビア音楽で一番重要な弦楽器で、日本の琵琶とよく似た形をしていて、演奏法も中国の琵琶のように自分の手の指ではじくのではなく、細長い撥を使うということや、首がやはり、うしろの方に曲っているということなど、たいへんよく似ています。(略)
 さらに目を西のほうに向けていきますと、アラビアのウードがヨーロッパに入っていったと思われる、よく似た楽器がたくさんあります。特に東ヨーロッパなどでは、いまでもそれをラウドと呼んでいるところもありますし、また、南ヨーロッパのスペインなどでは非常によく似た形のもので、しかしマンドリンのようなフレットのついた楽器のことをラウタなどと呼んでいまでも使っています。こういったものが発達して、完全にヨーロッパの楽器になったものが、リュートと呼ばれるものです。
 リュートは国によっていろいろな呼び方があります。ドイツ語ではLaute(ラウテ)、イタリア語ではliuto(リウト)、フランス語ではluthe(リュト)、英語ではlute(リュート)というようにいろいろな呼び方がありますが、これらは全部アラビア語のウード、それに定冠詞をつけてエルウード(elud)、こういう言葉がなまってできたものですから、アラビアとヨーロッパのリュートとの結びつきは非常にはっきりしています。さらに、ほかの楽器と混って、今日のマンドリンだとか、ギターというヨーロッパ楽器ができあがったと想像されております。(小泉文夫『日本の音』pp.169-72)

 リュートといえば、イタリアのレスピーギによる「リュートのための古風な舞曲とアリア」が想起される。とりわけ第3組曲の第1曲「イタリアーナ」は2007年ごろクルマのCMの挿入曲として使われたのでよく知られるようになったが(第3曲の「シチリアーナ」なども有名)、この作品は16~17世紀のリュート用の楽曲をレスピーギ弦楽合奏のために「編曲」しただけで、「リュートのための」とうたってはいるものの、そもそもリュートで奏される作品ではない。リュートは18世紀中にはいったん「滅びて」しまっているからだ。
 ちなみに「リュート」と「クラシック」との複雑な関係について述べたものとして、星野博美『旅ごころはリュートに乗って―歌がみちびく中世巡礼』(平凡社2020)がある。最後にそれを引いておく。

 日本の音楽教育で刷りこまれたクラシック観を基準にしたら、リュートはクラシックには入らない。リュートの繊細で小さな音色は、金管楽器鍵盤楽器には太刀打ちできず、楽器の熾烈な生存競争から脱落した。バッハと、同時代に生きたヴァイスを最後に、作曲家たちはリュート曲を作らなくなったといわれる。ヴァイスとバッハの死んだ十八世紀半ばを境に凋落の一途をたどり、二世紀以上の深い眠りについた。リュートは絶滅した、といわれがちな所以である。
 過激な表現をするならば、リュートは、いわゆる「クラシック」に殺されたともいえる。
 しかしながらCDショップに行けば、リュートはクラシックコーナーの片隅の「古楽」や「アーリーミュージック」に分類されている。自分を殺した相手と一緒にされ、さぞ居心地が悪かろう。
 リュート界や古楽界の人々の、クラシックとの距離感はどうなのだろう。私から見ると、やはりクラシック畑出身の人が多く、純粋にこの楽器に魅了された、クラシックをやっていたが何らかの理由で飽き足らなくなった、あるいはラッシュアワーを避けて通勤する人のように、すいた電車に乗り換えた、という人が多いように見受けられる。(pp.25-26)

*1:東山氏によると、唐の時代区分は文学史などのそれとは異なっており、「初唐」(618-712)、盛唐(712-781)、吐蕃支配期(781-848)=中唐、張氏支配期(848-907)=晩唐、というような分け方をするという(p.108)。

中村武志『埋草随筆』と内田百閒

 総勢87名の文章を収める佐藤聖編『百鬼園先生―内田百閒全集月報集成』(中央公論新社2021)には、たとえば河盛好蔵の文章であれば3本、阿川弘之江國滋安岡章太郎の文章も同じく3本、川村二郎や池内紀の文章は4本収録されているのだが、中村武志による文章は最多の6本が収録されている。その内訳は、講談社版百閒全集の月報に寄せたものがひとつ(「百鬼園先生の黒前掛」)、福武書店版百閒全集の月報や巻末に載ったものがみっつ(「阿房列車のこと」「郷里岡山に文学碑建つ」「全集完結後記」)、福武文庫の巻頭文・解説文がふたつ(「内田百閒の作品を新字、新仮名づかいにするについて」「百鬼園先生の錬金術」)、である。「内田百閒の作品を新字、新仮名づかいにするについて」は百閒生誕100年に当る1989年に書かれており、同題のものが内田百閒『冥途・旅順入城式』(岩波文庫1990)の巻末にも収録されている。内容はほぼ同じで、要は、百閒の生誕百年を機に「著作権者の遺族に乞うて、文庫にかぎり、新漢字、新仮名づかいにしていただ」いた、ということが述べられている(百閒は生前、新仮名新漢字を拒否し続けていた)。
 「百鬼園先生の黒前掛」に書いてあることは、かつてどこかで読んだような気がしていたのだが、中村は同じようなことを「百鬼園随筆との出会い」(『内田百閒と私』岩波同時代ライブラリー1993所収)でも書いている。あるいはこれで読んだのかも知れない。『内田百閒と私』は、『百鬼園先生と目白三平』(旺文社1986)を「改題し、加筆、改稿したものである」といい、黒澤明の遺作となった『まあだだよ』の公開に合わせる形で復刊されたものであるらしい*1。ちなみに同書巻末の「われ百閒を超えたり――あとがきにかえて」には、「一九九二年十二月十一日」の日付がみえるが、これは中村が亡くなったまさにその日である。日付は編集部で入れたのかもしれないが、いずれにしても、これが絶筆となったのだろう。
 中村武志といえば、新古書店目白三平シリーズの自選集のようなもの(講談社文庫)を買ったこともあるが、とりわけ印象に残っているのは、古書市で入手した『埋草随筆』(私家版1951年刊)である。雑賀進*2への献呈(?)署名入りの再版本(1952年1月30日刊)で、500円だった。徳川夢声源氏鶏太、古谷綱武、週刊朝日の書評(の一部)が転載された帯が巻かれていたことや、序文を百閒が書いていることなどに惹かれて購ったのである。「埋草」というのは、旧国鉄の社内報「国鉄」の埋め草的随筆を主として収めることに由来する*3
 さて『埋草随筆』には「図書目録」という文章が収められていて、そこに次のようにある。

 その日は丁度百閒先生の随筆集「無絃琴」が発売された日であり私は幾度も手に取つて本の背をなでたり、目次を覗き見したりして暫くはそこを立ち去ることが出来なかった。向うからやつて来た男が、今私が書棚へ戻したばかりの「無絃琴」を取り上げ、一寸開いて見るや否や乱暴に函へ入れ、投げつける様に書棚へ押し込んで出て行つた。私は店員の見てゐぬ隙を狙つて、その「無絃琴」の函の中からはみ出てゐるパラフイン紙を取りはがし、丁寧に皺を伸ばしてから本を包み、書棚へそつと返したところが、「御親切にありがたうございます」とささやく様な女の声が耳元でした。この(丸善の―引用者)女店員は、何処か店の隅で先刻から私の行動を仔細に監視してゐたらしい。私が「無絃琴」に執心して手に取つたり撫で廻していつまでも立ち去らぬ様子を見て、その女店員は私が万引をするのではないかと思つたのにちがひない、と思ひ当つたら私は思はず赤面した。(pp.21-22)

 この『無絃琴』、どういうわけか、「百鬼園随筆との出会い」では『百鬼園随筆』だったことになっている。当該箇所を引く。

 その日――昭和八年十一月初旬、いつものように丸善書店の新刊書の棚から、内田百閒の『百鬼園随筆』(昭和八年十月・三笠書房刊)を取って、何気なく拾い読みをしたところが、もはや本を棚に戻すことができなかった。百閒の文章をはじめて読んだのだが、その独特の論理、レトリック、わかりやすい文章でありながら非凡な表現、無駄のない的確な文体、筆をおさえご本人は絶対に笑わないユーモアと飄逸(ひょういつ)と滑稽と諧謔(かいぎゃく)とが、『百鬼園随筆』のいたるところから湧き出て来るようであった。
 『百鬼園随筆』を棚に戻したけれど、釘づけになったようにその場を立ち去ることができなかった。再び私は本を手に取り、背表紙をなでて見たり、目次を覗いたり同じことを繰り返した。
 そこへ向こうからやって来た男が、私が書棚へ戻したばかりの『百鬼園随筆』を手に取り、ちょっと開いて、ろくに見もしないで乱暴に箱へ押し入れて、書棚の隙間へ無理矢理突っこんで出て行った。
 私は、店員の目を盗んで、またもや『百鬼園随筆』を再び手に取り、箱と本の間からはみ出ているカバーのパラフィン紙を取りはがし、丁寧に皺(しわ)をのばしてから本を包み、書棚へそっと戻したところが、
 「ご親切にありがとうございます」
 ささやくような女の声が耳元でした。
 この女子店員はどこか店の隅のほうで、先刻から私の挙動を子細に監視していたらしい。『百鬼園随筆』に執心し、手に取って撫でまわして、いつまでも立ち去らぬ様子を見て、万引をするのではないかと彼女は疑っていたにちがいないと思い当たった私は思わず赤面した。(「百鬼園随筆との出会い」『内田百閒と私』pp.38-40)

 「百鬼園随筆との出会い」は、「図書目録」よりもはるか後に書かれたものらしいので、「図書目録」の記述の方が事実に近いのではないかとおもわれる(百閒の存命中に書かれたと云うこともあり)。このような齟齬があるのは、『百鬼園随筆』との出会いの衝撃をさらに劇的なものに仕立て上げたかったためなのか、単なる思い違いなのか、そのあたりのことはよくわからない。しかし、いずれにせよ中村が、『百鬼園随筆』によって内田百閒を初めて知り、その文章に心酔したという事実に間違いはあるまい。この『百鬼園随筆』を是が非でも欲しくなった中村は、「名曲を楽しむのはしばらく我慢しよう」と決意して蓄音機を質に入れ、借りた金でその日のうちに『百鬼園随筆』を購うこととなる。そして「ものにつかれたように」一晩で読了、その興奮もさめやらぬまま、古本屋で探し出した「『冥途』『旅順入城記』を夢中で読」んだという(「百鬼園随筆との出会い」「われ百閒を超えたり」)。
 食い違いといえば、中村が初めて百閒に会ったときの描写も、なぜか文章によって違いが有る。まずは「百鬼園先生の黒前掛」(講談社版全集第1巻月報)から。

 なんとかして、一度先生にお目にかかりたいと思うようになった。叔父の荒井袈裟之助が、小山書店主の小山久二郎さんから、先生への紹介状を貰ってくれた。それを持って、昭和十二年六月二十五日に、牛込の合羽坂のお宅をおたずねした。
 恰幅のいい先生は、当時は丸坊主で、髭をはやしておられた*4ので、ありていにいうと、大入道という印象を受けた。浴衣を着て、端坐しておられる先生の前にかしこまった私は、中村武志でございますと自己紹介をしたまま、あとの言葉が出なかった。
 軽くうなずいただけで、先生は何もおっしゃらない。何時間も経ったように思われたが、実際は数分にちがいなかった。お生まれは長野県だそうですね、とお聞きになった。顔をあげ、はいと答えて、また私は畳のへりに目を落した。再び長い時間が過ぎたようであった。ご郷里はどこの駅で降りるのですか。先生の口調は、重々しかった。塩尻駅でございます。
 そのあと二、三、おたずねになったが、それがどんなことであったか、今は記憶にない。時々大きな目でぎょろりと私をご覧になる大入道の大先生がこわくなって、またお出で下さいとおっしゃったが、再びおたずねする勇気がなかった。(『百鬼園先生―内田百閒全集月報集成』pp.29-30)

 次に引くのは、「百鬼園随筆との出会い」にみえる記述である。

 東京麻布小学校の教員をしている伯父の荒井袈裟之助は、安倍能成氏に師事していた。その安倍氏が百閒先生と親しいことを知り、おそれ気も無く安倍能成氏から紹介していただいた。
 昭和十二年六月二十五日(金曜日)午後一時にお出でいただきたいという返事が、依頼の時とは逆まわりの伝言で私のもとに届いた。
 この時百閒先生は、牛込区仲之町の合羽坂(かっぱざか)に住んでおられた。合羽坂を登って行くと、まだ登りきらない中途の左側であった。一時二十分前に私は百閒邸の前に到着したが、丸ビルの千疋屋で求めた枇杷びわ)の包みを提げて、約束の時間になるのを待っていた。真夏のように暑い日であった。
 座敷へ通された。長い時間待たされたように思ったが、実際は一、二分にちがいなかった。かしこまっている私の一メートルほど前に、のっそりとあらわれた百閒先生が黙って座られた。坊主刈りの大きな頭で、ぎょろりとした眼でじっと私を見ておられる。
 「中村武志でございます」
 しばらく間をおいて先生は、
 「よくお出でになりました」
 といったまま再び私のほうへ顔を向けて黙っている。
 何を申し上げたらいいのか、私には見当がつかない。何か口をきらなければならないとあせるのだが、頭の中が空っぽになっていうべきことが何もなかった。
 「お国はどちらです」
 ぽつりと百閒先生がいわれた。
 「はあ、信州、長野県でございます」
 それで会話が途切れてしまった。
 「信州というとアルプスですが……」
 「はあ、私の実家からは、北アルプスの槍、穂高、乗鞍、白馬、常念などが眺められます」
 その後百閒先生からのご質問はなかった。私のほうから何かおたずねするのは恐れ多いことであった。
 「今日はどうもありがとうございました。これで失礼いたします」
 話のつぎ穂を失った私が挨拶をすると、
 「朔日(ついたち)と十五日が面会日にしてありますから、いつでもお好きな時にお出で下さい」
 と百閒先生がいわれた。(『内田百閒と私』pp.43-45)

 かたや小山久二郎、かたや安倍能成。まずその紹介者からして異なるのだが、細かい点に至るまで色々と相違が有る。荒井袈裟之助が中村の「伯父」なのか「叔父」なのかということさえ判然しない。それに、「百鬼園随筆との出会い」の方が後に書かれた(と思われる)にしては、やたらと描写が細かい。ちなみに、最近出た山本一生『百間、まだ死なざるや―内田百間伝』(中央公論新社2021)は、前者「百鬼園先生の黒前掛」の記述を採用してはいる(pp.430-31)ものの、「伯父を通じて」(p.430)と書いている。
 ともかく、中村は百閒との初の面会から五年後の昭和十七(1942)年にふたたび「拝謁の栄に浴」することとなり、以後百閒が歿するまでの約三十年間、百閒を文学上の師として親しくつきあうようになる。
 冒頭で紹介した中村の『埋草随筆』の序文を百閒が書いていることには少し触れたが、中村と百閒との出会いには上記のようなゆくたてがあった。もっとも、百閒は序文を書くことを何度も拒んだという。このことについて詳しく述べているのが、「百閒先生の序文をいただく」(『内田百閒と私』)である。その内容を紹介する前に、中村がなぜ埋め草的文章を書くに至ったか、簡単に述べておく。
 百閒作品との衝撃的な出会いを経た中村は、勤め先の東京鉄道局の社内報「運輸月報」に随筆を書くことを、編集者で友人の小沢清史からすすめられる。そこで書き始めた随筆はことごとく百閒作品の摸倣で、九歳年下の文学青年・甘木雪山*5に、百閒の摸倣をやめてはどうか、と窘められる。そこで一旦は「筆を折って」しまう。約二年後に、中村は敬愛する百閒に会うことがかなうのだが、これは先に記したとおりだ。
 さて敗戦を経て、国鉄内部には地方鉄道局ごとに九つの組合が生まれた。鉄道当局は組合の左傾を防ぐという意図のもと、社内報を発行しようということになる。中村はその編集長に択ばれる。部下はたったの一人、例の甘木君だけだった。中村は、編集方針をめぐって幹部たちと対立するなどしたが、なんとか自分の意見を押し通し、昭和二十一年十月十日に創刊号を完成させる。その編集や割付は実質的に甘木が担い、今度はその甘木から、埋め草的文章を書くように頼まれた――という訣で、中村は十年ぶりに筆をとることになったのだそうだ。つまり、筆を折るきっかけも、再び筆をとるようになったきっかけも、甘木の発言だったということになる(以上「編集権を奪われる」『内田百閒と私』による)。
 とまれ、それらの文章をベースとして、『埋草随筆』は誕生することとなる。

 国鉄本社の社内報「国鉄」の埋草のほか、国鉄部内の新聞や雑誌に載せたものを一緒にすれば、昭和二十六年にはちょうど単行本一冊くらいの分量になった。そこで編集者時代の記念として、随筆集を自費出版し、先輩、同僚、友人たちに差しあげようと考えた。女房に相談したら、
 「ご冗談でしょう。食糧事情も少しはよくなりましたけれど、でも栄養失調にならないようにするためには、今のサラリーでは食費だけで大赤字ですよ。下手な文章を集めて、自費出版するなんて、狂気の沙汰というものですわ」
 たちまち反対されてしまった。
 そうなると、儲ける必要はないが、印刷費だけは何とか捻出しなければならない。差しあげるつもりを、今度は買っていただくことに変更した。
 懇意にしている静和堂印刷所の竹内常治郎氏に頼んで、特別に安く印刷して貰うことにした。その上費用のかからぬように文庫判にし、横綴(と)じの変型で、体裁を整えることにした。装釘と挿絵は、親しくしている高橋忠弥画伯が、無料で描いて下さることになった。(「百閒先生の序文をいただく」『内田百閒と私』p.127)

 「買っていただくことに変更した」とあるから、わたしの手許にあるものも、著者献呈本ではなく、雑賀に頼んで買ってもらったものなのかもしれない。

 印刷その他の準備が整ったところで、私は百閒先生にお願いして、序文を書いていただこうと考えた。
 ほかの用事でおたずねしたついでに、おそるおそるお願いすると、
 「序文を書くのはイヤです」
 と、百閒先生は一言おっしゃっただけであった。
 しばらく経ってから、未練がましく、再び懇願すると、
 「イヤダカラ、イヤデス」
 といって、黙っておられる。
 もはや、取りつく島がなかった。
 煙草を二、三本吸ってから、百閒先生が、序文というものについて、ご自分の考えを述べられた。
 自分は今までに、幾人もの人から序文を書いて貰いたいと頼まれたが、みんな断って、一度も書いたことがない。それはともかくとして、その理由をいうと、序文でどんなに褒(ほ)めようと、提灯を持とうと、その反対にどんなに悪口をいおうと、本の内容にはいささかも影響を与えるものではない。読者は序文に関係なく、著者の書いた文章に感動し、あるいは駄作だと考えるだけだ。序文ほど無駄なものはない。当然のことながら、こういう意味のことを言われた。実は森田たまさんにも序文を頼まれたがお断りして、その代わり、本の題を「木綿随筆」とつけて差しあげた。内容がいいから、本の題名に関係なくたいへん評判になった、と先生はつけ加えられた。
 その日は納得して帰って来たけれど、次にお目にかかった時、序文がいただけなくて残念だというような意味のことを何気なく申しあげると、
 「いや、書いてあげましょう。その代わり、あんたさんが希望なさっているような内容とはちがうものかも知れませんよ」
 といわれた。一カ月後に百閒先生から頂戴した序文は、在来のものとは全然ちがっていて、読者に向かってではなく、むしろ私に対する文章道についてのきびしい教えであり、訓示でもあった。先生も苦心なさった文章なので、作品同様単行本『無伴奏・禁客寺』の中に作品として収録されている。(同前、pp.128-29)

 これに続けて件の序文が全文引用されているのだが、それは省略に従うことにする。ただ、岩波ライブラリー版の引用文は、元版(旺文社版『百鬼園先生と目白三平』)を踏襲した引用ミスなのかどうか定かでないが、原文と2箇所違っていて、原文で「ドウ云フ事」「私ガオ請合ヒ申ス」なっているところが、それぞれ「ドウイフ事」「私ガオ請ヒ申ス」となっている。その事実だけここに記しておく。
 『埋草随筆』の完成後、中村は常時それを三、四冊持ち歩き、友人や知人に会うたびに買ってもらっていたそうだ。自費出版なので取次を通すことはできなかったが、田辺茂一と知り合いだったこともあり、まずは新宿の紀伊國屋書店に三十冊ほど並べてもらい、そのほかにも「有楽町駅前の丸の内書店、新橋の三壺堂、神田の東京堂三越本店の書籍部、丸善の本店、拙宅の近所の紙魚書房、目白書店の七軒に、それぞれ二十冊ずつ預けた」という(「著者は叱られる」『内田百閒と私』p.133)。
 そして『埋草随筆』は、「週刊朝日」の書評欄で紹介されるといった「思いがけないことが起こ」り(同p.134、手許の『埋草随筆』再版本の帯に週刊朝日の評が転載されていることはさきにも述べたとおり)、そのために「赤字がごくわずかで済んだ」のだった(p.136)。

 ところが、一年おいて昭和二十八年に、私にとって、再び思いがけぬ、その上ありがたいことが持ちあがった。表紙の装釘をした高橋忠弥画伯が、六興出版社の編集の人に、私家版『埋草随筆』の話をしたら、それが社長の吉川晋氏に伝わり、ここからあらためて出版されることになる。吉川社長は、昭和四十三年に亡くなったが、吉川英治の弟さんである。
 『埋草随筆』以後に書いた短い随筆「沢庵のしっぽ」などに、「目白三平の生活と意見」という小説を加えて、『沢庵のしっぽ』という変な題にして、六興出版社から出版した途端に、思いがけないほど売れだした。八人の作家、評論家の諸先生方が新聞や雑誌の書評欄で書いてくださったせいだろう。(同pp.136-37)

 「沢庵のしっぽ」は読んだことがないのだが、そのタイトルは、百閒の「風の神」(『百鬼園随筆』)に出て来る「澤庵の尻尾」に由来するものでもあろうか。とまれ、『埋草随筆』を出したことが、中村の兼業作家としてのスタートになったといえる。
 また、中村が出版史上にその名を刻んでいるのは、「目白三平」シリーズがヒットしたことに加えて、光文社「カッパ・ブックス」の創刊を飾った、ということも挙げられるだろう。
 ただこの事実は、たとえばその関連書、新海均『カッパ・ブックスの時代』(河出ブックス2013)に、

 いずれにしても、一九五四年一〇月に伊藤整の『文学入門』と、中村武志『小説 サラリーマン目白三平』の2冊で「カッパ・ブックス」はスタートした。編集長は弱冠二六歳の塩浜方美だった。(pp.37-38)

と、ごく簡単に触れられるにすぎない。「カッパ・ブックス」生みの親・神吉晴夫の著作『カッパ軍団をひきいて』にいたっては、「伊藤整の『文学入門』と『サラリーマン目白三平』の二冊をもって、カッパ・ブックスは創刊された」と、著者名すら出していない。実はそれには曰くがあり、神吉と中村との間には、印税をめぐってひと悶着あったというのである。「もの書きはつらいよ」(『内田百閒と私』)は、その経緯について詳しく述べている。そこには神吉への率直な(しかし、かなり手厳しい)批判もみられて興味深いが、ここでの詳述は避ける。

*1:同時代ライブラリー版の帯に、「黒澤明監督『まあだだよ』の世界 全国東宝系公開中!」などとあり、主演の松村達雄の写真が載っている。

*2:鉄道日本社の社長だった人物。同人は『埋草随筆』pp.81-82に登場している。『百鬼園先生―内田百閒全集月報集成』にも、講談社版全集の月報に載った雑賀の文章が収められている(pp.75-77)。『実説内田百閒』(論創社1987)という著作もあるそうだが未見。

*3:ちなみに『埋草随筆』冒頭の「堀立(ママ)小屋の百閒先生」は、百閒歿後に増補され、『内田百閒と私』に「百閒先生弟子の代筆」という文章として収められた。なお「掘立小屋の百閒先生」は、「『小説新潮』二十五年三月号に書かせていただいた」作品(中村武志「榜葛剌(べんがら)屋盛衰記」『内田百閒と私』p.56)だという。

*4:百閒と髭との複雑な(?)関係については、「髭」(『百鬼園随筆』)で百閒自身が書いている。

*5:この「甘木」というのは、これまた百閒の書きぶりを真似たもので、「某」という匿名のつもりなのだろう。

野口冨士男「かくてありけり」のことなど

 前回の記事で紹介した宇野浩二『思い川』は、野口冨士男の「かくてありけり」にも(やや唐突な形で)出て来る。関東大震災直後、市民の避難状況を描写したくだりである。

 私たちだけではなく、富士見町の花柳界の連中はことごとく馬場へ避難した様子で、みるみるあの広場は人間と荷物とで埋めつくされた。
 宇野浩二の『思ひ川』によれば、作者自身とみられる主人公牧新市の愛人で富士見町の芸者だった三重次のモデル村上八重もその一人だったようだから、私は何時間か彼女とおなじ場所に避難していたわけだが、九段坂上の灯明台のあたりへ行ってみると坂下の神田方面は蒼みを帯びた灰色の煙につつまれていて、その煙のなかから大八車をひいたり、箪笥や夜具などの大荷物を背負ったおびただしい数の避難民があえぎあえぎのぼって来るのが見えた。(「かくてありけり」『しあわせ/かくてありけり』講談社文芸文庫1992所収:98-99)

 宇野の『思い川』から当該部分を引くと、

 それから、牧は、友だちと一しょに、一たん本郷三丁目にもどり、壱岐坂をおりて、いたるところに、電信柱がたおれ、電線が地上にもつれている、焼けあとの、道のない道を、たどった。そうして、ある堀ばたにそうている坂をのぼって、高台の端にある、『なにがし』神社の鳥居の下で、一服しながら、下町の方を眺めると、目の下にある神田へんから、遠く、日本橋、本所、深川あたりにかけて、一めんに焼け野が見わたされた。
 その時、ふいに、「先生、」と、うしろから呼ぶ声がしたので、牧がふりむくと、思いがけなく、紺がすりの著物(きもの)をきた三重次が、牧の顔を見あげながら、頰に微笑をうかべて、立っていた。
「君んとこは……」と牧が云うと、
「まる焼けです、……」と云ってから、三重次は、『なにがし』神社の後の方を指さしながら、「……あそこに、みな、避難しております、」と云った。
(『思い川・枯木のある風景・蔵の中』講談社文芸文庫1996:31)

となっているのだが、野口によるとこの「『なにがし』神社」は、靖国神社、ということになる。
 「かくてありけり」でもうひとつ印象深いのは、大正十一年の夏、房州・保田の松林の外れで、主人公が歌人原阿佐緒と思しき女性に声を掛けられるところである。野口自身、「あるいは私の白昼夢にも似た錯覚であったかもしれない」(p.82)と述懐するように、それはまさに、夢中の一場面を描いてでもいるかのような不思議な一齣である(ちなみに連城三紀彦は、原をモデルとした長篇小説『残紅』を書いている*1)。
 さて、野口冨士男の文章は、十数年前からぽつぽつ読んではいたが、特にここ4~5年ほど特に集中的に読んでいる。その直接の契機になったのは、佐伯一麦氏の次の文章である。

 格別文学青年でもなかった私が、野口氏の作品に親しむきっかけとなったのは、昭和五十三年、当時「週刊プレイボーイ」にエッセイを連載していた中上健次氏の文章による。十八歳の私は、田舎の仙台から東京に出て来たばかりだった。
 「小説家として生粋の気質を持った人」「一見地味ではあるが、それだけに水増しは一切ない」という中上氏の惹句に何故か触発されるところがあって、刊行されたばかりの『かくてありけり』を手に取った。熱中した。それは、実質感のある何かだった。都会とは、まがいものばかりが横行するところだ、と苛立っていた十八の身体に、その小説は真っすぐ入り込んで来た。(「生命の樹を仰ぐ――野口冨士男の小説」『麦主義者の小説論』岩波書店2015:105)

 なお中上は、野口の「なぎの葉考」の取材旅行に同行しており、その「なぎの葉考」は中上=間淵宏の人柄について、「巨漢というより肥大漢とよぶほうが適切な間淵には、粗野な外見にもかかわらず、人間的にもこまかく神経のはたらくところがあった」(『なぎの葉考・少女―野口冨士男短篇集』講談社文芸文庫2009:125)と書いている。
 もうひとり、佐伯氏の文章(前掲『麦主義者の小説論』や『渡良瀬』など)に触発されて、わたしがよく読むようになったのが和田芳恵なのだが、野口は和田とも親交があって、たとえば野口のエセー集『断崖のはての空』(河出書房新社1982)には、「和田芳恵さんを悼む」「和田芳恵 友人代表弔辞」「和田芳恵を憶う」「和田芳恵との交友」が収められている。
 そもそも野口と和田とは、私小説作家(両人とも徳田秋声を特に好んだ)ということのほかに、学究的な側面がある*2ところまでよく似ている。そういう意味では、今年の3月に、野口冨士男『なぎの葉考・しあわせ』と和田芳恵『暗い流れ』とが小学館P+D BOOKSから同時に刊行されたのは、象徴的な出来事だったといえる。また佐伯氏の前掲書には、「私小説という概念――和田芳恵と『暗い流れ』」「生命の樹を仰ぐ――野口冨士男の小説」が並べて収められているのだが、同様に、たとえば鈴木地蔵『市井作家列伝』(右文書院2005)にも、「野口冨士男の志操」と「和田芳恵の技芸」とがやはり続けて収められている。この事実は、なかなかに興味ふかいことである。
 さて野口の作品に話を戻すが、緻密な風俗描写が光る『風のない日々』(文藝春秋1981)もよかった。淡々と日常を描写しながらも、主人公をやや突き放したような形で終幕を迎えるところがまた良い。これを読んだのも、やはり佐伯氏の下記の文章に刺戟を受けたことが大きい。

 まさに、秋声的、野口版『新世帯』といえる『風のない日々』を私は静かな熱狂とともに読んだ。はじめにエピグラフとして引用されている佐多稲子の言葉、「しかしこのころは、一般にいわゆる暗い時代であった。(略)市電にぶらさがる男たちの表情に明るさはない。女たちのつつましさも何かを押えている」に要約される戦前の「暗い時代」の一組の夫婦の愉快ならざる夫婦生活をくすんだ色合で描いたこの一編には充実したものの感触があった。さらに、こんな箇所――
「恋愛から家庭をきずいて離別する男女がいるいっぽうには、見合いで結ばれてむつまじい夫婦生活をすごす者もいるが、愛情のない夫婦生活もある。が、しかし、愛情のないことが、ただちに離婚に結びつくとばかりかぎったものでもない。そういう夫婦が、しかも無数にいることを信じないのは、未婚の男女だけである」
 当たり前のことかもしれないが、そんな当たり前のことをはっきりと認識させてくれる小説は少ない。そうして、その当たり前のことが、明確なもののイメージで描かれるとき、それがどんな暗い認識でも、読むものに充実感を与えてくれるのではないだろうか。(佐伯前掲pp.106-07)

 『風のない日々』は、近隣の古書肆で拾ったのだが(500円だった)、同じ本屋では『なぎの葉考』(文藝春秋1980)400円や、『海軍日記―最下級兵の記録』(文藝春秋1982)500円も拾った。
 後者『海軍日記』は、1958年に現代社から書き下ろしで刊行された作品の新版なのだが、このたび中公文庫に入った。その背を見ると、「の 2 3」とあるから、『わが荷風』(中公文庫1984)、『私のなかの東京―わが文学散策』(中公文庫1989)に続く中公文庫入りということになる。
 とりあえずざっと確認すると、註釈部もそのままの様だ。この日記作品は、本文そのものよりも(野口は上官に知られないよう、たいへんな苦労を重ねながら日記をつけていたようだ)、後から補完的に附された註の部分こそむしろ読んでおもしろく、『標準海語辞典』を引用しての術語の解説など、ことに興味をひかれる。
 ちなみに、冒頭の「応召、入団」の昭和十九年九月十四日條の註釈部には、

 父と母とは横須賀へ先まわりしていて、海兵団の入口にあたる稲楠門の所まで見送ってくれた。「死ぬんじゃないのよッ」と私の背後から声を掛けた母の髪は額に乱れていた。身だしなみのよかった母には珍しいことであった。(文庫版p.19)

とあるが、このくだりは「かくてありけり」にも見える。これもやはり印象的な一場面だったので、以下に引いておく。

 横須賀駅から海兵団までは、徒歩でも十分とはかからない。稲楠門という地点から先は桜並木の海軍道路で、そこからは一般市民の通行が禁じられていた。団門はそれよりさらに奥にあったが、引率されて稲楠門へさしかかったとき私はギクリとした。父と母が私より先まわりして横須賀へ来ていて、身を寄せ合うようにしながら立っていたのである。
 三十年以上も以前に夫婦ではなくなっていた二人が、そうしてそこに立っていたことは、私という息子があったためには相違なかったものの、姉や私がいなくても二人の間には誰にも引き裂くことのできぬなにものかがあったのではなかろうか。そうとしか考えようのない機会に私はもういちどめぐり合うことになるのだが、そのとき母が叫んだ言葉も、私には生涯忘れることができないものであった。
「夏夫ッ、死ぬんじゃないのよ」(「かくてありけり」、前掲書pp.214-15)

 野口は戦時下のみならず、復員後も日記を書き続けており、残された帳面は厖大な量にのぼる。このことについては、野口の息・平井一麥氏による『六十一歳の大学生、父 野口冨士男の遺した一万枚の日記に挑む』(文春新書2008)が詳しく述べるところであった。

 日記を調べてみると、昭和八年からはじまっていて、十五年半ばから十九年半ばまでの中断はあるものの、以後、平成五年の死去寸前まであることが判明した。
 父は、太平洋戦争末期の昭和十九年九月に三十三歳(略)という年齢のいわばロートル兵だった。しかも、昭和六年満二十歳の徴兵検査で、「徴集ヲ免除シ第二国民兵役ニ編入相成候条此旨通知ス」という「徴集免除通達書」を受取っていて、「徴兵免除」になっていたにもかかわらずの「徴兵」で海軍に召集され、敗戦直後の二十年八月二十四日に復員した。この間父は四冊の小型手帳に、トイレに隠れたり防空壕に避難したときに日記をメモした。これに注釈を加え三十三年『海軍日記』として現代社から発刊されたが、倒産して絶版になっていたのを、五十七年文藝春秋新社から『海軍日記―最下級兵の記録』として再刊された。(p.39)

 なお、復員後の約一年半にわたる日記も、『越ヶ谷日記』(越谷市教育委員会)と題して2011年に(野口の生誕百年を記念して)刊行されているものの、そのほかの大部分は未刊のままである。
 このたびの『海軍日記』の文庫入りは、野口の生誕110年を記念したものということになるが、これよりもさきに、平井一麥・土合弘光ほか編『八木義徳 野口冨士男 往復書簡集』(田畑書店2021)が出ている。八木も野口と同年で、いわば盟友関係にあった間柄だが、生涯の長きにわたってここまで手紙でのやり取りが続いたというのも非常に珍しいことだろう。
 最後に、八木が野口の「かくてありけり」の感想を述べた書簡から一部を引いておく(1978年3月2日の日付がある)。

 ただいま三月二日ちょうど午前一時です。これが貴兄のお作「かくてありけり」を讀み終った時間です。
ある興奮でどういう感想を述べたらいいのか頭が混乱しています。(略)
一体これが「小説」というものなのか?たしかに「小説」にはちがいない。しかしここには「小説」を越えた何かがある。その「何か」とは何なのか?
小説には「芸」というものがある。たしかにここには「芸」がある。しかしここには「芸」を越えた何かがある(以上、2カ所の「越えた何か」に傍点―引用者、以下同)。その「何か」とは何なのか?
ここにはたしかに「人間」が描かれている(「描かれて」に傍点)。しかしここには「描かれている」という以上の何かがある。その「何か」とは何なのか?
この三つの「何か」について、いまのぼくは明確な答を出すことができない。
しかしお作を讀み終ったただいまの時間のぼくの頭はこの三つの「何か」でほとんど充満している、といってもいい。小説というものを讀んで、こんな感じになったことは何年ぶりだろう、いや何十年ぶりだろう。
「おもしろく讀んだ」などとは口が裂けても言えない。かといっておもしろくなかったのか?全くその反対だ。
「おもしろくて、おもしろくて……」いや、ここでも「おもしろさ」を越えた何か(「越えた何か」に傍点)がある。
その「何か」とは何なのか?(前掲p.123)

*1:連城は、「わが人生最高の10冊」の第8位に瀬戸内寂聴『美は乱調にあり』を挙げており(『女王(下)』講談社文庫2017:322-23)、このような作品に刺戟を受けて、実在の人物をモデルとした「恋愛小説」をものしたのかもしれない。

*2:和田は樋口一葉研究でも知られるが、野口はいわゆる文学史、文壇史的な研究で知られ、『徳田秋聲傳』『感触的昭和文壇史』などの著作がある。「かくてありけり」にも、文芸雑誌創刊の意義を文学史的な観点から位置づける記述が随処にある(文芸文庫版p.118、p.167など)。

宇野浩二のことー生誕130年

 「文学の鬼」との異名をとり*1、また、「私小説」という言葉の生みの親としても知られる宇野浩二の作品は、ほぼ自身の実体験に基づくものだったのではないか――、などと何の根拠もなくおもっていたが(というより、昨夏まであまりきちんと読んでいなかったのだが)、改めて読んでみると、実はそうでもないことに気づかされる。
 たとえば『蔵の中・子を貸し屋 他三篇』(岩波文庫1992第7刷*2)には、表題作の「蔵の中」「子を貸し屋」のほか「一と踊」「屋根裏の法学士」「晴れたり君よ」が収められているが、創作性の強いことが明らかな「子を貸し屋」は措くとしても、その他の各作品について、宇野自身は「あとがき」で次のように述べている。

 『藏の中』は、はつきりいふと、近松秋江先生が、あらゆる著物を質にいれてしまつた上に、自分が現在きてゐる著物まで質にいれてゐる、といふやうな話を、廣津和郞から、聞き、その話を元にして、その頃(大正六七年ごろ、)私もさかんに質屋がよひをしてゐたので、その時分の私自身の生活と感想のやうなものもいくらか(かなり)取りいれて、だいたいは空想で作つたものである。(pp.203-04)

 『一と踊』は、これも、ある友人が、ある時、ある山の温泉に滯在ちゆうに、ここに書いたやうな、(もつとも、ここに書いたやうなのは私の空想であるが、まづ、このやうな、)二人の老婆の踊りを見た、といふ話から、私のいはゆる體驗したやうな事を元にして書いた、やはり、作り話である。(p.204)

 『屋根裏の法學士』は、これを書いたころ私が下宿をしてゐた九段の中坂の下へんの下宿屋を舞臺にしただけで、やはり、まつたく作り話である。(p.204)

 『晴れたり君よ』は、書き出しのへんが本當にちかい話で、中頃のはうもその時分の私のいはゆる體驗のやうなものではあるが、この小説を書く氣になつたのは、はじめの方に書いたやうな事を經驗したのが『元』であつて、それを元にして、鼻唄でもうたふやうな氣で、作りあげたものであらうから、まづ『若氣』が作つた出來そこなひの唄のやうなものであらうか。(p.205)

 「空想」「作り話」などと、こうまで「手の内」を明かされては、いささか拍子抜けする気がしないでもないのだが、晩年に至って宇野がそこまで強調しなければならなかったのも、何か理由があってのことだったかもしれない。
 ちなみに「屋根裏の法学士」に出て来る「下宿屋」の描写として、以下のような印象的な一節がある。

 さて、法學士乙骨三作の下宿は、ある坂の中腹であつて、しかもそれが往來の面よりも二尺ほど低い地面にたつてゐた。だから、彼の部屋は、往來(すなはち坂)に面した二階にありながら、道をとほる人の顔と、室内にすわつてゐる彼の顔とが殆ど同じくらゐの高さになるので、窓をあけはなして、押し入れの戸もあけておいて、そこの寢床の上に横臥しながら、往來のはうを見わたすと、往來の人は、まさか押し入れの中に人がゐるとは思はないから、誰も見てゐる者のない空の部屋のつもりで、無關心な態度で通つて行くので、彼は通つて行く人人を手に取るやうに眺めることができるのであつた。(p.93)

 似た描写は、宇野の『苦の世界』にも出て来る。引用は『苦の世界』(岩波文庫1989第17刷*3)から。

 私の部屋は往来にめんした二階にあったが、その下宿屋の建物が坂の中腹に位置していたので、私のすわっている畳と、往来の人のあるく土とがほとんど同じ高さだった。だから、窓をあけて首をつき出した私は、家の二階部屋にいるにもかかわらず、自分の顔とおなじ高さに往来する人々の顔を見いだして、…(〈その二〉p.130)

 その時、表のかた、今日の今朝私が窓をひらいて、通りがちょうど坂になっているので、私のふむ畳と往来の高さとがほとんどおなじだとか、窓からつきだす私の顔と、往来をゆく人の顔とがほとんどおなじ高さにあるとかいってよろこんだところの、…(〈その二〉p.147)

 こういった描写は、まさに自身の体験に基づくものであったろう。なお「屋根裏の法学士」というのは、江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」を想起させるが、宇野の上記の記述がなければ、「屋根裏の散歩者」は(タイトル、屋根裏からの「窃視」という設定も含めて)世に出なかったと思しい。宇野の「夢見る部屋」(池内紀川本三郎松田哲夫=編『日本文学100年の名作 第1巻1914-1923 夢見る部屋』新潮文庫2014等)における執拗な室内描写や幻燈趣味なども、乱歩に与えた影響は大きかったと思われ*4、事実、乱歩の随筆でも何度か言及されている*5
 乱歩が特に初期の宇野作品を耽読したことはよく知られるところで、最近出た落合教幸+阪本博志+藤井淑禎+渡辺憲司〈編〉『江戸川乱歩大事典』(勉誠出版2021)も「宇野浩二」を立項しており(pp.432-36)、そこには、

 初期乱歩短編の文体には宇野浩二からの影響が顕著である。大正後期の文壇小説の饒舌体が乱歩・横溝にもたらした影響の問題や、また、読者への語りかけという、のちの少年探偵団シリーズで最大限発揮される語りの形式の起源を考察する上でも、宇野浩二の存在は大きいであろう。(pp.435-36)

などとある(担当執筆は安智史氏)。
 とまれ宇野の創作態度は、「私小説」のスタイルを取りながら、空想(作り話)と事実とを意図的に綯交ぜにするというものだとおもわれ、このことをよく象徴する表現が、「枯木のある風景」に古泉圭造(小出楢重がモデル)の言葉として出て来る。

「それで、今度の風景は、その雑物をみんな取って、こっちの絵エ(『裸婦写生図』を指さしながら)の裸婦の横たわっている辺に、枯木の丸太を四五本横倒しにおいたろと思てんね。それだけで、後はまだ思案ちゅうや。……今までの、写実一点張りは、これで(再び『裸婦写生図』を指さして)当分打ち切りにして、これからは、芭蕉風に、写実と空想の混合酒(カクテエル)を試みてみよと思うんや。題して『枯木のある風景』というのはどうや。」
「ふうむ、」と島木は唸った。
 島木はその晩ほとんど眠れなかった。その日、島木は、古泉の家の門を出た時から自分の家に帰るまでの間、「芭蕉風に、写実と空想の混合酒(カクテエル)を試みてみよと思うんや、」という言葉を何度口のなかで繰り返したか知れなかった。(講談社文芸文庫版pp.236-37)

 しかし、宇野の作品には実在の女性をモデルにしたものが多く、その女性たちについての記述が、事実なのか、はたまた創作なのかよく判らないところが、かえって「批判」を呼ぶことにもなったのではなかろうか。
 水上勉は、『宇野浩二伝』で次の如く書いている。

 「苦の世界」「軍港行進曲」では伊沢きみ子が、「山恋ひ」その他の「諏訪もの」では(原とみはともかく)村田キヌが、「子の来歴」「人さまざま」「四方山」では星野玉子や公吉やキヌが、事実といくらか変えられて、あるいは歪めて書かれていなかったか。たとえば伊沢きみ子が事実は四歳も年下だったが二つ年上にされている点など、意地悪く考えれば作者に周到な自己弁護の匂いがなくもない。年上の妓を身売りに出すのと年下の妓を出すのとでは、ずいぶん違うからである。よしそれがあっても、「人は嘘を書くことが出来ぬ」と浩二はいう。だからそれで浮ばれなくても、モデルたちは観念しなければならないということになるのである。浩二の小説づくりの態度がそうである以上は、小説からその「真」と「嘘」とをふるい分ける作業はまたなみたいていのことではない。(『宇野浩二伝(上)』中公文庫1979:408-09)

 こういった宇野の「自己弁護」に関しては、大岡昇平が次のように言及しているのを最近見つけた。

 一九七〇年水上勉が『宇野浩二伝』を書き始めた。彼は「續軍港行進曲」の叙述や生前の宇野自身の暗示に従い、道玄坂上や三宿方面にこの竹屋(渋谷の宇田川横丁附近にあった竹屋―引用者)を探したのだが、遂にそれは発見できなかった。私はそれについて、当時感想文を書いたことがある。要旨は宇野の小説では、この竹屋が色街の近くにあって、表を着かざった芸者やお酌が通る。すると元芸者の愛人がいら立ち、やがて宇野に別れ話を持ち出して、横須賀から芸者に出るということになっている。しかし現実の竹屋は練兵場通りにあり、裏は柴田君の家に代表される高級住宅地に接していて、近所に色街なぞないのである。それをそういう風に作ったのは、私小説通弊の「私」一人いい子になるためのうそで、実際は宇野がすすめて芸者にしてしまったのではないか、という疑問を提出しておいた。(略)
 竹屋の裏座敷には宇野の母親が同居していた。この母親は、水上の調査によれば、北河内で水商売をしていたことがある。(略)女はむしろ宇野母子によって売り飛ばされたのではないかというのが、私の意見であった。(略)
 当時接触があった出版社出入の「女友」から手紙が来て、愛人がヒステリイを起す記事が『苦の世界』にある。この女はそれきり出て来ないし、水上の調査はこの「女友」に及んでいないが、(略)証言が事実とすれば、(宇野の)新しい奥さんとはこの「女友」ではなかろうか。
 要するに女は九段下の下宿からではなく、「竹種」(竹屋の名前)にいる間に芸者になって出て行ったのである。(略)女の身代金を敷金として、新しい女と共に移ったのでなければならない(略)。
 水上勉は私とは成城で隣組なので、私はこの情報をすぐ伝えた。(略)話の録音テープも聞かせた。彼も宇野の書き方のあいまいさに気付いていて、私の意見に半ば賛成だったが、『宇野浩二伝』を単行本にする時も結局この証言を取り入れなかった。彼としては恩師について書くに忍びなかったに違いないので、これは伝記を書くに当っての一つの態度といえる。しかし第三者である私としては、一応書きとめておく方がいいかも知れないので、私自身の回想を書く途中で知った一つの可能性として記しておく。(大岡昇平『幼年』文春文庫1975:188-91)

 もっとも水上は、『宇野浩二伝』には宇野について知り得たすべての事柄を盛り込んだわけではない、と後にいっている。『わが文学 わが作法―文学修行三十年』(中公文庫2021←中央公論社1982)で次の如く記している。

…私だけがきいたこと、私だけが見たことを、急に(宇野浩二―引用者)先生の晩年に至って手柄顔に書きつづけることに、多少の控え目を意識していた。それは、私のなかの節度といってもいいし、私だけがきいていることのなかには、あるいはききちがいや、臆測が作用して、先生の真実をあやまりつたえる懸念がなしとしない。そのことを恐れたのである。(略)
 いずれにしても、私は、自分で調査し、メモしてきたことや、先生の許にいた日ごろ、先生ご自身からきいたことなどの思い出のすべてを、ここに書いているとはいえない。(略)したがって、作品にも出さなかった調査メモや、先生の言行録については、私はそのまま、今日も机のよこの筐においているのである。(pp.133-34)

 この「調査メモ」には、大岡から聞いた話の概要も記してあったかもしれない。
 それにしても、上記の大岡の話が事実であるとすれば(その可能性が高そうだが)、ひどい話である。ひどいことを自覚していたからこそ、そのあたりを虚=創作でごまかしたのだろう。
 ちなみに、『苦の世界』で「ヒステリイを起す」愛人のモデルとなった伊沢きみ子は、宇野と別れて二年後に自殺している。昭和の初めに宇野は精神に異常をきたすことになるが、その原因をこのあたりに求めるのが、嵐山光三郎氏である*6

 しかしながら、この連作(『苦の世界』のこと―引用者)を読めば、「のんびり」どころか、宇野発狂の因が、この家庭事情暴露小説に対する、モデルとされた女たちの反発にあったことが推測される。宇野の情痴私小説には、「火宅を楽しむ陽気さ」がある。愛人をつぎつぎと作り、それを題材として私小説を構想する「情話製作工房」あるいは「私家版赤新聞」告白編といった気配さえある。〈その一〉に書かれたきみ子は猫いらずを飲んで死の抗議をした。それが、一見、傲慢不埒な宇野の心に斬りつけぬはずはない。宇野の職人芸は、私小説の形をとって、主人公が宇野自身の投影として見せつつも、それが「真の宇野」であったかははなはだ疑わしい。どこかに嘘がある。その弁明をするかのように『苦の世界』の最終章〈その六〉は、「ことごとく作り話」というタイトルである。(「宇野浩二――なぜ薔薇を食べたか」『文人暴食』新潮文庫2006:348-49)

 宇野の「発狂」については、たとえば近藤祐『脳病院をめぐる人びと―帝都・東京の精神病理を探索する』(彩流社2013)の「プロローグ」(pp.7-8)や第3章のpp.206-10も、広津和郎の記述などを引きつつ*7、その症状なども含めて詳述するところであった。「脳梅毒による進行麻痺」との診断がくだされたという。
 それでも宇野は、数年で奇蹟的なカムバックを果たす。

 私は、昭和四年に大病する前(ママ)、昭和四年一月號の「改造」に小説を書く約束をして、昭和三年の十一月二十五日頃であつたか、その日、徳廣(徳広巌城。上林暁のこと―引用者)が原稿を取りに來ることを承知しながら、菊富士ホテルを體だけ引き上げたことがある。さうして、その詫びのつもりで、昭和七年十二月八日、病後の第一作『枯木のある風景』を徳廣巖城にわたした時は、誇張していへば、互いに萬感胸に迫るものがあつた。(宇野浩二『文學の三十年』中央公論社1947:167)

 宇野の作風はしばしば、病前と病後とでがらりと変わった、というふうに言われるけれど、その変化について手軽に知ることができるのが、『思い川・枯木のある風景・蔵の中』(講談社文芸文庫1996)であろう。昨夏、「人間椅子が選ぶ講談社文芸文庫フェア」(全10冊)のうちの1冊に択ばれ、選者の和嶋慎治氏が次のような言葉を寄せている。

軽妙饒舌な文体で、つかの間垣間見る夢を描くのが、宇野の初期作品の特徴であった。一転、畢生の作「思い川」においては、簡潔な筆致で夢を夢のままに結実させている。まさに文学の鬼、執念の人とは宇野浩二である。

 なるほど初期の「蔵の中」「一と踊」などもよかったが、どれか一作を択ぶとすれば、私も『思い川』をとる。岩波文庫に入っていた初期短篇「晴れたり君よ」と同じく、村上八重をモデルとした女性が登場する作品で、記述も重なる部分があるが、「その後」のことについて詳述している(やはり「虚」も交えて書いているだろうけれども)。
 ところでタイトルの「思い川」に関しては、作品冒頭でエピグラフ風に、

おもひ川ながるる水のあわさへも うたかたびとにあはできえめや 『伊勢物語

と示されていて、この歌に由来するであろうことが暗示されるが、水上勉は次のように述べる。

 「思ひ川」は、「あるひは 夢みるやうな恋」という副題があり、さらに「おもひ川ながるる水のあわさへもうたかたびとにあはできえめや『伊勢物語』」と、小さく題の横に歌が掲げられていた。この歌について、新潮社版「日本文学全集」『里見弴・宇野浩二集』の巻末注解で、吉田精一氏が、この歌は「後撰和歌集」巻第九、恋歌一の「思川たえず流るゝ水の泡うたかた人にあはで消えめや」の作者「伊勢」と「伊勢物語」を混同した誤りであろうと指摘しておられる。発表誌の「人間」昭和二十三年八月、十月、十一月号では、「おもひ川たえずながるる水のあわもうたかたびとにあわできえめや」とあり、九月、十二月号では、単行本と同様「たえず」が削られ、「も」が「さへも」となっている。本歌をかえて、しかも「伊勢物語」とされているわけだが、このような作為は、はたして吉田氏の指摘される「伊勢」と「伊勢物語」の混同であるか、それとも、それを承知の上で「伊勢」物語と、本歌をかえて使われたのか、そこのところは今となっては謎である。(『宇野浩二伝(下)』中公文庫pp.365-66)

 たしかにこれは謎だとしかいいようがないが、宇野の頭のなかには、以下の小唄の一節も谺していたのではないだろうか。

 今でも私のおぼえている唄は、辻君のたえぬ流れの思い川というのだった。辻君のたえぬ流れの思い川、恋にはほそる柳かげ、しばし止めたき三日月の、櫛のむねさえ小夜風に、さらりと解けし洗い髪、むすんで清き水の音。
 いい唄だね、と私が思わず感嘆していうと、いい唄だろう、と、しかし参三はそれを聞かれたのをちょっとはずかしがるような表情をして、
 「この一ばんしまいの、むすんで清き水の音、というとこを名人がやると、聞いていると、真に水の音がきこえるというくらいだよ。」
(略)だが、そのたえぬ流れの思い川というのはなんの事だかわからないので、「君、木戸君、そのたえぬ流れの思い川というのはどういう事だい、」と聞くと、
 「さあ、」といいながら、彼もきっとよくわからないのだとみえて、ちょっと返事がなくて、(略)「たえぬ流れの思い川はたえぬ流れの思い川だよ、」と参三はいって、「君、雀はいいね」というのである。(『苦の世界』〈その五〉岩波文庫pp.300-01)

――
 宇野浩二は、ことし生誕百三十年、そして歿後六十年を迎えた。二月に出た頭木弘樹編『ひきこもり図書館―部屋から出られない人のための12の物語』(毎日新聞出版2021)には、宇野の「屋根裏の法学士」が採られている(pp.121-38)。

蔵の中・子を貸し屋―他三篇 (岩波文庫)

蔵の中・子を貸し屋―他三篇 (岩波文庫)

苦の世界 (岩波文庫)

苦の世界 (岩波文庫)

江戸川乱歩大事典

江戸川乱歩大事典

宇野浩二伝 上巻 (中公文庫 A 19-9)

宇野浩二伝 上巻 (中公文庫 A 19-9)

  • 作者:水上 勉
  • 発売日: 1979/09/10
  • メディア: 文庫
幼年 (文春文庫 158-1)

幼年 (文春文庫 158-1)

文人暴食(新潮文庫)

文人暴食(新潮文庫)

*1:1927年に、「小説の鬼」の副題を有する「日曜日」を発表したことに由来するという。後述する宇野の『思い川』でも、「昭和二年のはじめごろ」牧新市(作者の分身)が『小説の鬼』という文章を書いたことになっていて、作中には次のようにある。「牧は、自分のもっとも愛している『文学』の生活(いとなみ)に、『小説の鬼』などと名づけて、不安におそわれながら、そのつぎに、もっとも愛している筈である、『恋愛』の生活、『家庭』の生活というようなものにも、やはり、何ともいえぬ、漠然とした、いわば『なになにの鬼』とでもいうような、不安を、その頃、やはり、ときどき、ふと、覚えるようなことがあった」(講談社文芸文庫版pp.108-09)。

*2:初刷は1951年だが、旧字旧かな。

*3:初刷は1952年、1972年第12刷改版。新字新かな。

*4:ついでに云うと、新潮文庫のこの巻には乱歩「二銭銅貨」も収められている。

*5:そもそも、私が中学生のころに「宇野浩二」の名を知ったのは、乱歩の随筆によってである。

*6:なお『思い川・枯木のある風景・蔵の中』(講談社文芸文庫)の柳沢孝子「作家案内」には、「昭和二年の発病は、直接的には性病からきた精神障害であったと言われるが、(村上)八重との関係のもつれも無視できない」(p.328)とある。

*7:広津と芥川龍之介とが宇野に付き添って斎藤茂吉のもとへ病状を診てもらいにいった、という挿話は、日本近代文学史上の「事件」としてよく知られるところである。後述『思い川』には、芥川をモデルとする「有川」が登場する。歿年、命日も事実と同じである。

『完落ち』ー業界用語のことなど

 赤石晋一郎『完落ち―警視庁捜査一課「取調室」秘録』(文藝春秋2021)は、“伝説の刑事”大峯泰廣氏の活躍を描いたノンフィクションである。他の本で読んだり(第三章「猥褻」)、テレビで見たり(第五章「信仰」、第八章「迷宮」)した挿話もあったものの、巻措くあたわざる面白さで、文字どおり「イッキ読み」したのだった。
 加えて、辞書好き、言葉好きとしては、所々にいわゆる隠語、業界用語が紹介されていることも興味深く感じた。その例を挙げておこう。

 “マグロ”というのは「仮睡盗(かすいとう)」のことを指す刑事独特の隠語だ。仮睡盗とは駅構内などで酔い潰れ寝ている人間から財布などを抜くコソ泥のことだ。市場に転がされている冷凍マグロのように動かない酔客を狙い犯行に及ぶので、刑事の間でマグロと呼ばれるようになったそうだ。(p.43)

 多分、上記から派生した意味のひとつなのだろうが、「マグロ」は犯罪者側からは、「睡眠薬等で客の身ぐるみをはがしてしまい,路上に放置することを『マグロにして放ってこい』という」(下村忠利『刑事弁護人のための隠語・俗語・実務用語辞典』現代人文社2016:104)といった用法でも使われるようだ。
 そのほか次のような業界用語、隠語が出て来る。

 事件化はしていないものの事件である可能性が高い案件を捜査することを、「掘り起こし事件」という。(p.59)

 そう云えば、スコップやシャベル(「掘り起こす」道具だ)を意味するscoop(スクープ)は、まさに「特ダネ」のことだった*1

 旅慣れているな、と大峯は感じた。「旅慣れる」とは、前科が多く刑務所暮らしが長いという意味だ。何をしでかしてもおかしくないタイプだろう。(p.107)

「一課長! 下川の様子がいつもと違います。この場所については慎重に話をするんです。私に『引き当たり』をさせてもらえませんか!?」
 引き当たりとは、つまり現場検証のことだ。
「そうか。やってみようじゃないか」
 寺尾*2は即答した。(pp.159-60)

 著者の赤石氏は、「引き当たり」をごく簡単に「現場検証」と言い換えているが、重要なのは、「被疑者などを現場へ連れて行く」という点である。ここでも、その下川(仮名)という証人を現場に同行させて重要な証拠を得るという展開になっている。
 前掲の下村著は、「引き当たり」について次のように説いている。

被疑者を犯行現場などに連行して,犯行時の裏付け捜査をすること。「明日,娑婆の空気を吸わしたる。引き当たりやぞ」と刑事は値打ちをつける。かつては,引き当たりに行った帰りに刑事は「コーヒーでも飲め」と缶コーヒーなどを被疑者におごっていたが,このような利益供与は少なくなっている。「サービス悪いでんな」とふてくされる被疑者もいる。(p.128)

 ちなみに、ニュースなどでよく耳にする「現場検証」という表現は、どうもメディア用語であるらしい。古野まほろ『警察用語の基礎知識―事件・組織・隠語がわかる!!』(幻冬舎新書2019)には、以下の如くある。

 ところがこの「現場検証」という言葉も、業界ではあまり聞きません。意図して使うことはまずないと思います。「容疑者」「重要参考人」同様、解りやすさその他の理由から一般化したメディア用語だと思います。
 ここで、捜査でいう検証――音節が少ないので、業界用語でもケンショウ――とは、確かにメディア用語でいう現場検証を含みますが、実はもっと幅広な概念です。すなわちケンショウとは、業界の堅い言葉でいうと、捜査員等が「①五感の作用により、②身体・物・場所の、③存在・性質・状態を認識する強制捜査」のことです。(p.54)

 なお、隠語に関しては、約3年前に「再び『けいずかい』、あるいは掏摸集団の隠語について」という記事を書いている。また、特に警察関係の隠語については、約8年半前の「読書メモ抄」で触れたことがある。
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 7月1日にフジテレビ系で放送された「奇跡体験!アンビリバボー」の「実録!戦慄の国内事件」で、『完落ち』第六章「自演」の内容が映像化され、大峯氏も出演していた。『完落ち』の紹介映像もあった。(8.2記ス)

*1:同じ語に由来するものでも、「スクープ」「スコップ」と形を違えることで日本語としての意味に差異が生じる例としては、「トラック」「トロッコ」、「スティック」「ステッキ」などがある。

*2:当時の捜査一課長・寺尾正大氏。寺尾氏が今年一月に亡くなったことは、赤石著「あとがき」の追記でも触れられている(p.235)。「大峯氏が最も敬意を持っていた上司だった」といい、本文中にも何度か登場する。4月24日付朝日新聞夕刊の「惜別」欄では、指揮官として徹底的に報告書を読み込む姿勢や、「被害者の気持ちを忘れずに捜査すれば、難事件も解決できる」を信条としたことなどが描かれている。