雷蔵没後三十五年

市川雷蔵、本名太田吉哉は、1969(昭和四十四)年七月十七日、肝臓ガンのためこの世を去りました。享年三十七。…それから三十五年。彼は今もなお、スクリーン上で我々を魅了しつづけています。

『てんやわんや次郎長道中』(1963,大映

監督:森一生、脚本:八尋不二、撮影:今井ひろし、音楽:斎藤一郎、主な配役:市川雷蔵(旅鴉)、坪内ミキ子(おきん)、姿美千子(おかよ)、藤原礼子(目明しお安)、ミヤコ蝶々(お蝶)、茶川一郎(みの吉)、芦屋鴈之助(浪人)、芦屋小鴈(山伏)、南都雄二(板前)、藤田まこと(坊主)、島田竜三(長五郎)、名和宏(代官芹沢九郎二郎)、真城千都世(お艶)、夢路いとし(美濃辰)、喜味こいし(男金長兵衛)、白木みのる(坊主珍念)
まず注目すべきなのは、関西の藝人たち、つまりミヤコ蝶々夢路いとし・喜味こいし白木みのる…といった面々と市川雷蔵が共演しているということ。その組合せが、このような股旅喜劇では全く違和感がありません。
脚本もなかなか良くて、芦屋鴈之助・小鴈兄弟と、南都雄二藤田まことが実は……おっと、これ以上は言うまい。実際に、作品をご覧ください。喜劇だけれども、雷蔵がやっぱり格好良い。
ちなみに、坪内ミキ子坪内逍遥の孫、つまり坪内士行の娘。

眠狂四郎 魔性剣』(1965,大映

眠狂四郎魔性剣 [DVD]
監督:安田公義、原作:柴田錬三郎、脚色:星川清司、企画:藤井浩明、撮影:竹村康和、音楽:斎藤一郎、主な配役:市川雷蔵眠狂四郎)、嵯峨三智子(おりん)、長谷川待子(お艶)、明星雅子(お糸)、穂高のり子(佐絵)、若松和子(青華院)、須賀不二男(菊村外記)、稲葉義男(水野忠成)
縄がほどけていくシーンなどは、常識的にはあり得ない展開なのですが、大立ち回りのすごさで帳消しです。主観ショットにしびれました。
今回の「敵」は、「お家」。お家への忠誠という善が、じつは「悪」の側面をもつというアンビギュイティ。そこに、業の深い「善」、つまり狂四郎が関わってきて…。狂四郎はつまり、純然たる「善」ではありません。そのアンチ・ヒーローぶりが、このシリーズの売りです。
狂四郎はいつも、「善悪二元論」のパラダイムじたいを破壊して、四角四面の「良識」に捉われた我々をアッと言わせます。そこが、単なる「勧善懲悪型」や「反権力ヒーロー」と徹底的にことなっているのです。
最後に挙げるのは、「雷蔵は如何にして狂四郎となりし乎」。つまり、雷蔵が狂四郎シリーズの第一作の「失敗」をもとに、二作以降では役づくりにおいてどのような点に留意したのか―、を本人が語ったくだりです。

雷蔵、雷蔵を語る (朝日文庫)
さて、私自身で私の眠狂四郎を批評するとしたら残念ながらこの第一作(『眠狂四郎勝負』のこと―引用者)は失敗だったといわないわけにはまいりません。試写を見て私は驚きました。狂四郎という人物を特徴づけている虚無的なものが全然出ていないのです。映画の中の狂四郎は何か妙に明るくて健康的でそれは狂四郎のイメージとまったく相反したものでした。これまでの私にたくまずして出ていた虚無感や孤独感といった一種のかげりが今や私の肉体的、精神的条件の中からほとんど姿を消していたのに私ははじめて気がついてハッとしましたこのことは、まことに迂闊千万な次第ですが、その反面私自身が家庭を持った一種の安らぎ、あるいは充実感といったものが無意識のうちに、にじみ出ている結果だと知ることができました。もちろん演技者としては、これは弁解になりませんし、そんなことではいけません。この次こそは厳重な注意の目をくばりながら狂四郎の役づくりを大きな課題としなければならぬと戒心しています。(市川雷蔵雷蔵雷蔵を語る』朝日文庫,2003. p.274)