推理小説のおもしろさとは

畔上道雄『推理小説を科学する ポーから松本清張まで』(講談社ブルーバックス

1983.4.20第一刷。
「はじめに」にあるように、

健康だけを唯一の売物にしていたわたし(畔上道雄―引用者)は、五月中旬(一九八二年)に突然背中の痛む病にとりつかれた。この原稿の大部分は病床で書かれた。(p.7)

のだそうです。本書を書き了えられたのち、著者の畔上氏は逝去されました。享年六十八。
この本は、二十七の「推理小説」を俎上にのせ、その小説のかなめとなるトリックが、「科学的であるか否か」を考察しています。
たとえば、ガストン・ルルーの『黄色い部屋(の謎)』を、「『くめどもつきない味わい』がある」作品(p.90)だとしながらも、トリックには無理がある、と批判します*1
また、江戸川乱歩の『化人幻戯』は、「なかなか野心的な作品」(p.44)ではあるが、「もう少し条件をはっきり書かないと科学的とはいえない」(p.50)。ネタばらしになってしまうので、これ以上はくわしく書けません。ちょっと残念なのですが。
その他に取上げている作品としては、たとえば高木彬光『刺青殺人事件』、クロフツ『樽』(このまえ新訳が出ました)、松本清張『点と線』、乱歩『陰獣』など。
おおかたは批判的なのですが、坂口安吾の『不連続殺人事件』や夏樹静子の『天使が消えて行く』は、「心理的トリック」の視点から評価しています。まあ、畔上氏は「生体情報科学」(あたらしい言葉でいえば、「学際的」な学問領域)を専門とされていたので、このような視点からの評価や批判も可能だったのでしょう。それゆえに、「科学を成立させている基盤は、感性である」(p.98)とも書いておられるのでしょう。
また、この本が好もしいのは、トリックが科学的でないことを理由に、その推理小説じたいの価値を否定しているわけではない、ということです*2
何をとりあげるにせよ、「科学」したり「哲学」したり(それにしても変な日本語です)するのであれば、まずは対象への「愛」がなければなりません。
そういえば、去年亡くなられた由良三郎さんの『ミステリーを科学したら』(文春文庫,1994)もその好例でした(由良氏はつくる側、すなわち「推理作家」でもありました)。その一節を引いて、むすびとします。

私の言いたいのは、一篇中のもっともクリティカルな所では、たとえ若干の嘘が混じっても、その嘘がいちじるしく全体の論理美を支持する限り、そのリアリティー無視は許されるべきだ、ということである。(中略)いくらリアリティーでがちがちに固められた、矛盾撞着のない物語でも、推理小説としての面白さ―つまり論理の美に富む展開―がないものは、批判の対象にもならない失格作品だということである。(由良前掲書,p.64-65)

*1:おなじ理由で、藤原宰太郎『真夜中のミステリー読本』(KKベストセラーズワニ文庫,1990)もこの作品を批判しています。しかし参考文献一覧に、『推理小説を科学する』もあがっているので、おそらくそれを参照したのでしょう。ちなみに藤原氏のこの本は、高木彬光『わが一高時代の犯罪』や、赤川次郎三毛猫ホームズの推理』の矛盾点もあげつらっています。

*2:畔上氏は「はじめに」で、「この本ではトリックの科学性は論じているが、その推理小説の評価はいっさいしていない。科学性をはなれたトリックの論議、また推理小説の評価はべつの機会に稿をあらためて論じたい」(p.6)と書かれています。もうそれを読むことがかなわないのが、たいへん残念です。