ゴダールは俺の弟子だと豪語した男

ミルクマン齊藤監修『中平康レトロスペクティヴ』(プチグラパブリッシング

2003.9.20発行。夜、ろくに「見」もせずに本棚へ突っこんでいた本を発見したので、今日はそれを取上げることにします。
「軽い快感モダニスト」といえば、森田芳光。そして、「究極のモダニスト」(誰がそう名づけたのかは知りませんが)といえば、中平康であります。二年前、つまり平成十五年*1の九月から十一月まで、中平康の独占ロードショー(四十三作品が公開)がユーロスペースでやっていました。それにあわせて刊行された(このロードショーの宣伝もかねています)のが、この本です。その惹句が、

覚悟しろ。中平康の逆襲は、いまこそ本当に始まる!!(p.3)

というのだから、ものすごい。
私はこれまでに、中平の作品を五本だけ観たことがありますが、その五本を好きな順に並べるとすると、やはり『狂った果実』(1956)がいちばんで、『砂の上の植物群*2(1964)、『月曜日のユカ』(1964)、『猟人日記』(1964)、『変奏曲』(1976)…という順になりましょうか。『変奏曲』が最後だからといって、これが嫌いだというわけでは決してありません(本人は、不本意な結果におわったと考えているようですが)。しかし、この五本は五本とも、作品の傾向をまったく異にしています。おなじ監督が手がけたとはおもえない。いったい、「中平康」とは何者? …という好奇心がまずあって、この本に食指がうごいたというわけです。しかも、装釘が素敵で、値段も手ごろ。そして、例の惹句にやられてしまいました。
だいたい、「中平康」という監督じたい、もうあまり取上げられることがないので、この本の存在は貴重です。しかも薄いながら、中平に関する色々のことが分ります。
たとえば、中平のデビュー作は、一般によく言われる『狂った果実』ではなくて、『狙われた男』(1956)と見なすのが正確だ、ということ。『狂った果実』が先行公開されたので、こちらがデビュー作である、というイメージが定着してしまっていたようなのです。
また中平は、ビリー・ワイルダーアルフレッド・ヒッチコックルネ・クレールを終生好みましたが、そのいっぽうで、ヌーヴェル・ヴァーグを、

「あんな青ッぽい、安っぽい、下手くそな駄映画」
「幼稚というか稚拙というか、ザラ紙に誤字だらけの同人誌小説を読まされた印象」
(本書p.59,「映画芸術」1960.4より)

と一蹴します。しかもこの当時、『狂った果実』がトリュフォーに評価されていた(下の引用を参照)ことなど、中平はまったく知るよしもなかったのだそうです。

昭和が明るかった頃
ヌーベルバーグ運動がはじまる直前、パリで『狂った果実』を見た若い批評家フランソワ・トリュフォーは、雑誌「カイエ・デュ・シネマ」八三号につぎのように書いた。「(この映画に含みこまれたすべての要素は)明白な単純性と明晰さをもっている。すべてのショットが満ち、かつ豊かなのだ。なぜならばそれは“等価”であり、そのどれもがつぎのショットに奉仕しないからである。あきらかにそれはつながらない。つながることができないのだ。つぎにこのようなショットを、そしてそのつぎにこのような別のショットを撮影するよう暗示するのは、最初のショットの“撮影作用”だからである。そしてモンタージュに際して、すべてこれらのショットは、おたがいによりうつくしいものなのだが、場面あるいは映画にもっともよく利用されるように、それぞれ配置されるだろうからである」(飯島正訳)
訳文のせいか、それともトリュフォー自身のつたなさのせいか、とてもわかりにくい文章だが、この後年の著名な映画作家が、ミゾグチでもクロサワでもオヅでもない、フランスではまったく無名の東洋人の青年監督の仕事に大いに刺激された様子はよくわかる。『狂った果実』がフランス・ヌーベルバーグに影響を与えたとまではいわないが、一九五八年、ジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』やクロード・シャブロルの『いとこ同士』以前、すでに中平康がヌーベルバーグの特性であるロングショットとクローズアップの速度ある転換、大胆なカメラアングルの多用などを先どりしていたことはたしかだし、松竹ヌーベルバーグに先行していたこともまた事実である。(関川夏央『昭和が明るかった頃』*3文藝春秋,2002.p.83-84)

*1:中平の没後二十五年に当ります。

*2:原作は吉行淳之介の同名作品で、『男流文学論』(ちくま文庫)では、これがやたらとたたかれていました。そんなこととは関係なく、この映画は大傑作だとおもいます。

*3:すでに、文庫落ちしています。