放送の20世紀―ラジオからテレビ、そして多メディアへ
一九二五年(大正十四年)三月二十二日の朝九時三十分。東京・芝浦の仮放送所から、日本のラジオ第一声が流れた。アナウンサーの京田武男は「ジェーイ、オーウ、エーイ、ケーイ」と深く緩やかに、抑揚をつけて、遠くへ呼びかけるようにして東京放送局コールサインを伝えた。(中略)この日までに東京放送局と聴取契約を結んだものは三千五百人、未届けも含めて国内でラジオ受信機を持っていた人は八千人以上と推定された。ほとんどの人は鉱石ラジオで放送を聞いた。当時、東京の男性小学校教員の初任給は月額二十五円、真空管を使ったラジオは百円から二百円、輸入品のスーパーヘテロダイン式ラジオになると千五百円もした。鉱石ラジオは検波器と同調回路のセットで十円、レシーバーやアンテナ、アースに碍子をそろえて三十円であった。
NHK放送文化研究所『放送の20世紀』NHK出版,2002.p.12-13)