大正期の「大事件」

金子務『アインシュタイン・ショック(Ⅰ) 大正日本を揺がせた四十三日間』(岩波現代文庫

アインシュタイン・ショック〈1〉大正日本を揺がせた四十三日間 (岩波現代文庫)
2005.2.16第一刷。単行本は、1981年河出書房新社より刊行(新装版は1991年)。ただし一部は、『アインシュタインはなぜアインシュタインになったか』(平凡社,1990)より再録。今日は別の本を読む積りだったのですが、読み始めたらこれが面白くてやめられず、ほかの本を差しおいて一気に読んでしまいました。「一読巻措くあたわざるおもしろさ」、とはまさにこのこと。
アルバート・アインシュタインが来日*1したのは、1922(大正十一)年11月17日で、その年の12月29日まで―つまり、四十三日間滞在しました。この本は、第一級資料の『訪日日記』を読み解いていく過程で、アインシュタイン来日の意義を再評価し、また彼の等身大の姿を、周辺資料を博捜して明らかにしています。
来日前のアインシュタインについても紙数をさいており、たとえばフィリップ・レナルト(やヨハネス・シュタルク)とアインシュタインの討論がおもしろい。その対立は当初、「実験物理学」対「理論物理学」という明快な図式に支えられたものであったのですが、個人的または組織的な恩讐、思想的な対立に回収されてしまいます。その過程もうかがい知ることができる。
また、シオニストとしてのアインシュタイン(p.21など)*2、スイス国民にしてドイツ国民でもあるアインシュタイン(p.305-306)など、彼の知られざる一面についても詳述しています。
さて、彼の招聘に尽力したのが、山本實彦の改造社*3でありました。その改造社アインシュタインの「不可解」なやり取りがおもしろく、著者はそれを鮮やかに「推理」してみせます。ところで山本は、アインシュタインの存在を、西田幾多郎の雑談によって初めて知ったのだそうです*4。編集同人であった横関愛造も、のちに

ぼくはベルンシュタイン(ドイツの経済学者)の間違いじゃないかと思いました。(p.111)

と述懐するくらい、当時のジャーナリズムにはその名が知られていなかったようです。しかし、『改造』による大々的な宣伝、地方紙のバックアップなどによって、「アインシュタイン」という学者の名や「相対性理論」というタームが、大衆にも浸透していきました。ところが「相対性理論」は、「アイタイセイ理論」とか「アイタイショウ理論」とかいうふうに意図的に読み違えられて(p.168-169)、きわめて世俗的な好奇の対象ともなるわけです。
それでも著者は、その大々的な宣伝というか煽動について、

むしろ、香り高き知性の結晶であるアインシュタインとその理論を、資本の論理なども打ち忘れて、これほどの熱情を以て読者に強いることができたこの時代の、文化的希求の絶対性を、いまの私たちは買わねばならないのかもしれない。(p.218

と書いています。ただ事実を並べ立てるだけではないので、非常に好もしい。
そして、さらに興味ふかいのが、アインシュタインの「日本文化観」。彼の日本文化観には、やや公式的な部分*5もあるのですが、日本人の「非個性化」が、家族制度を維持するための社会的機能であると考えつつも、「この家族制度が天皇軍国主義国家の培養土であるなどという、ラッセル張りの性急な見解もとらなかった」(p.320)、という点に特色があります。また、伝統文化の「型」に関心を寄せ、それをスピノザ的自然観にもとづいて「自然と人間の一体様式」であるとみなし、「イデオロギーに淫することのないフォルムへの讃仰が元型的日本人に見られる」(p.366)ことを看破しています。このことからも、「型」をあくまで論理的に内観しようとした、アインシュタインの自覚的かつ客観的なスタンスがうかがえるのではないでしょうか。
もちろん、様々の人との交流もおもしろい。たとえば、三宅速(はやり)や徳川義親、岡本一平との交流。二番目の妻・エルザとのやり取りも微笑ましい。
アインシュタイン来日」という「事件」は、たんに皮相なブームに止まったのではなく、そのショックは、日本文化の深いところに沈潜し、あらゆる分野に影響をおよぼすことになります。それがたぶん、『アインシュタイン・ショック(Ⅱ)』で詳述されることになります。四月前までには、こちらも読んでみようとおもいます。
そういえば、この本には当時の原稿料の話もちらほらと出てきたのだった。つい最近、『売文生活』を読んだばかりでしたから、そういうディテールもおもしろく読みました。

*1:本書を読むとわかるのですが、アインシュタインの来日には、様々の要因が複雑にからみあっています。

*2:アインシュタインシオニズム運動に参加したのは、イェルサレム等に文化的・教育的機関を置くことを第一の課題としていたから―なのだそうです。

*3:改造社はそれ以前に、ラッセル、サンガー夫人を日本に招いているのですが、興行的に失敗しています。本書は、山本の稀有な商才まで分析しています。

*4:そののち、桑木紣雄(あやお)や長岡半太郎を介して、アインシュタインの業績の偉大さを知ることになります。

*5:アインシュタインは、ハーンの『日本の面影』を読んでいたと考えられるのだそうです。ある種の「東洋幻想」をもっていたことは否めないでしょう。