桜の樹の下には…

平安神宮の紅枝垂

晴れ。
朝から大学。K君と大学を出たのが五時半ころ。
桜が散っていく。桜の散りゆくさまは、なんだか寂しいものです。
この季節になると、私はきまって坂口安吾『桜の森の満開の下』*1を読むことにしています。
特に心にのこっているのは、次の一節。

桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかもしれません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼みずからが孤独自体でありました。
彼は始めて四方を見廻しました。頭上に花がありました。その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。ひそひそと花が降ります。それだけのことです。ほかには何の秘密もないのでした。

呉智英さんは、『サルの正義』(双葉文庫,1996)で、安吾のこの作品を「日本近代三桜(さんおう)小説」のひとつとして挙げています。

(大学一年生から二年生にかけてのころ―引用者)最初に読んだのが石川淳の『山桜』、次が坂口安吾の『桜の森の満開の下』、最後が(中略)梶井基次郎の『桜の樹の下には』であった。私はこの三つを「日本近代三桜小説」と勝手に名付けた。この勝手な命名は私の名声欲を満足させるものであり、誰彼なくこれを吹聴して得意がった。(p.198)

このうち『桜の樹の下には』は、たいへん短い小説で、青空文庫でも読めます。しかし難解で、私には理解できませんでした。正直にいうと、未だに分りません。とくに最後の三行あたりが。『山桜』のほうが―これも私にとってはむつかしいのですが―、まだ「わかる」ような気がする。
梶井の作品について、呉氏は次のように書いています。

ほぼ完全に整理して了解したのは、それからかなり後のことである。おそらく三十歳近くになってからだろう。そう、年齢である。私は、梶井の作品を言葉になおして了解するには若すぎ、作品発表時の梶井も、私のような未熟な読者に言葉で了解させるには若すぎたのだ。梶井も、自分自身を投影した想念をイメージだけで語るよりしかたがなかったのだ。それは若者の限界であり、反面から言えば特権でもある。(p.200)

果して、私が梶井の作品を了解する日は来るのでしょうか。
そういえば、渡辺淳一の『桜の樹の下で』という作品もありました。『桜の森の満開の下』や、この『桜の樹の下で』は映画化されていて、両作品とも岩下志麻が出演しているというのがおもしろいのですが、それはともかく、『桜の樹の下で』のエンドロールで流れる小六禮次郎の音楽がたいへん素晴らしい。映画の内容よりも、音楽のほうがむしろ印象にのこっています。

*1:中学生のころお世話になったS先生が好きだった小説で、高校一年生の春にはじめて読みました。爾来、毎年読んでいます。