カフェーの話を少々

晴れのち曇り。
急用ができたので、午前中に千里中央へ。「北海屋」でちゃんぽんを食す。美味。
用事を済ませたついでに、田村書店に立寄る。尾辻克彦『肌ざわり』(河出文庫)*1を購う。解説は、坪内祐三さん。この解説から読んでいます。刹那の「一九七九年的」。
電車のなかで、井上誠『珈琲記』(ジープ社)を読む。
明治二十一年、上野黒門町に開店したという「可否茶館」(長つづきはしなかったそうですが)は知らなかった。浅学ゆえに、喫茶店の元祖といえば、東京では松山省三*2の「カフェー・プランタン」(明治四十四年)、大阪では「カフェ・キサラギ」(明治四十一年か明治四十三年)あたりではないか、とおもっていました。

(略)珈琲についても、ヨーロッパ的、中でもパリ的なものと、アメリカ的なものとの二つが、既に先駆しているのを見逃がせないのです。メーゾン鴻の巣やカフェプランタンは前者であり、カフェパウリスタはその後者だつたのです。(p.197,ママ)

カフェーの店名は、荷風の『斷腸亭日乘』などでもお馴染みですが*3、その様な区別があったとは。
ところで、カフェーはカフェーでも、様々の営業形態がありました。福富太郎『昭和キャバレー秘史』(文春文庫PLUS)は、次のように分類すべきだと説いています。

(1)純粋カフェー……主にコーヒーを販売
(2)レストラン……主に西洋料理を販売
(3)バー……酒場
(4)キャバレー……飲食物のほか余興も提供

また福富氏は、(4)のような営業形態としての「カフェー」は、大阪が東京に一歩先んじていたのではないか、というふうなことも書いています(p.56)。これはちょっと意外です。
帰宅したのは午後三時ですが、親戚に頼まれた仕事もあるので、ちょっと大変でした。演習の担当箇所の古例は、未だに見つからないし。

*1:「肌ざわり」から、私はやはり「耳ざわり」を想起します。「耳触り」を慣用とみるか誤用とみるかは人それぞれで、そのことについてはここで少しふれたことがあります。

*2:河原崎国太郎の父親です。

*3:と言いながら私は、摘録(岩波文庫版)しか読んでいませんが……。