小波と須磨子

山口昌男『「敗者」の精神史(上)』(岩波現代文庫)を読んでいたら、「(巖谷小波は―引用者)二十二年紅葉館で須磨子と親しんだ」(p.357)とあり、おやと思う。巖谷大四『波の跫音―巖谷小波伝―』(新潮社)の「年譜」には、「明治二十三年(一八九〇)」のところに、「芝紅葉館へしばしば出むき、女中中村須磨子(後に大橋新太郎博文館主夫人)と親しんだ」(p.261)とあるからだ。もっとも小波自身は、「二十年前後」に須磨子と「浮名を立てられた」(『駒のいななき』広文堂書店,p.64)、と曖昧な書き方をしているらしいのだが。
また、同じ「年譜」の「明治二十二年(一八八九)」に、「紅葉に誘われて色里遊びを楽しむようにもなり」とあるのが、ちょっと可笑しい。時に漣山人、数えで二十歳。