グロテスクな教養

晴れ。
電車のなかで、高橋里惠子『グロテスクな教養』(ちくま新書)読了。話題になった『文学部をめぐる病い』は読んだことがないけれど、これはわりと面白く読みました。
この本が異色なのは、(とくに冒頭部が概説的に)「教養」そのものについて書かれているわけではなくて*1、いろいろな切り口でもって「教養論」「教養観」の受容史をかんがえてみようという「教養論」のカタログ、すなわち「『教養論』論」になっているから、です。
だから著者は、「教養とは何ぞや?」ということから話を始めようとはしない。「教養の定義の曖昧さ」について言及するところからはじめます*2。「教養論」を期待していると、肩すかしを食わされることになります。著者はむしろ、日本には「教養主義」が馴染まなかったことをこそ強調したいのだから。
まず第一章では、題名にも「グロテスクな」とあるように、日本型「教養主義*3がその成立段階からグロテスクな形式を伴っていた、ということを明らかにしてゆきます。すなわち、国内においては当初から「教養主義」と、たとえばマルクス主義に代表されるような「教養主義批判」とが複雑に入り組んでいたというわけです。
第二章では世代論にまで踏込み、教養言説の変遷をたどっていきます。そもそも、日本は近代化の過程において、大学教育の「理念」は輸入せずに「システム」のみを導入したのだそうです。それがために、大学ははじめから「実学」を中心にしたエリート教育を行わざるを得ず、「教養を学校カリキュラムの外に出してしまった」(p.104)のだと。しかも当時の教養言説は、反エゴイズム・反功利主義を中心としていた。だから、「読書」という行為は、「僕は優等生(=受験秀才)なんかじゃない」ということを証明し、それを周囲と確認しあうための手段ともなり得たわけです。ともかくも著者は、戦後の混乱のなかで教養が「自分自身を反省し批判する、マゾヒスティックだが生産的な能力を突如発揮しはじめたことを評価すべきだろう」(p.120)と書いてます。
第三章はいちばん面白く読みました。人文科学系の学問と出版社、そして「教養主義」がどのように結託してきたかを分析しています。上でものべたように、「教養」は大学のカリキュラムから追い出されてしまったのですが、これは「教養産業」誕生の契機にもなったわけで、アカデミズムとジャーナリズムの接近を促し、「人文書」という日本独特の「商品」を生みだすことになったというのですから皮肉なものです。ことに興味ふかいのは、ニューアカとジャーナリズムとの結託を論じたくだりでしょう。ここで著者は、編集者が果たした役割や、読者のミーハー的な気分が果たした役割についても述べていますが、くわしくは書きません。また著者によれば、ニューアカが軽やかで自由であった(ように見えた)のは、各人が旧制高校的友情のごとき親密さで結びついていたからで、それゆえ既存の研究グループよりも残酷なまでに選別的であったというのです。
第四章は、まあ本書がかなり力を入れている部分だとはおもいますが、第三章までを(私の関心事と結びつけてあくまで主観的に)まとめるだけでもスペースをかなりとってしまったので、簡単にふれるに止めます。この章は、「教養主義」を「女と階級」に引寄せて考察するわけですが、女性による「男探し」が衰退したことによって、教養の温床が失われたり(すなわち「教養主義の終焉」)、女性の「上昇の方法も可能性も」見失われてしまったりした、という悲しい(?)末路が描かれています。
私が人文科学系の学生であるだけに、いろいろと考えさせられるところの多い本でした。たとえば「ギョーセキ」にかんする裏話とか、筒井某の「語学教師」にたいする誤解とか。その他には例えば、千石保さんが『新エゴイズムの若者たち』(PHP新書)の調査で見出した「新まじめ主義」の若者たちは、徹底した「人柄主義」(p.107〜)の産物であるのだろうかとか、前田愛の「大正後期通俗小説の展開」(『近代読者の成立』岩波現代文庫所収)などを読んでみると―あくまで素人考えですが―、鶴見祐輔の『母』は当時の女性たちによって、必ずしも澤地久枝のような「読み」(p.221)でもって支持されたわけではなかろうとか、疑問におもった事なども。
ただし、本書にも読みにくいところがありました。それが残念といえば残念です。たとえばこれは一種の戦略なのかもしれませんが、主語が一貫して「われわれ」であったり、第二章の冒頭で「学力と教養の違い」は問題にしていないと断言しているのに、「学力低下批判」の文脈を持ち込んでかえって主張を分りにくいものにしたり等々。「すこし長いあとがき」の、「押すに押されぬ立派な教養主義者」(p.229)という表現などもやや気になりました。しかしとにかく、ほぼ全篇にわたって見られる「皮肉」がかなり効いている*4本でした。
それからこれは余談ですが、本書には原口統三『二十歳のエチュード』が出てきます(p.44-53)。これについて、「引用文献・参照文献」には次のようにあります。「なお、本書とほぼ同時に『ちくま文庫』でも出た! ただし偶然」(p.239-40)。これは店頭に並んだばかりの『定本 二十歳のエチュード』のことで、なんと「死人覚え書」まで附されていて、お買い得です。

*1:著者の「教養」そのものに対するスタンスは、実は「すこし長いあとがき」で述べられています。

*2:その意味で、加地伸行『〈教養〉は死んだか』(PHP新書)のスタイルに似ていると言えなくもない。加地氏は「あとがき」に至ってようやく、〈教養とは何か〉ということを専門的に考えたことがないと書き、またそういう専門は存在しないと断言し、「すなわち、教養論に定説などはない。その人間が己れの人生の軌道を顧みて、その結果として結実する教養論が存在するのみである」(p.287)と喝破します。これはこれで、至極真っ当な意見だとおもいます。

*3:本書では、「教養」もこれにちかい意味で用いられています。

*4:とはいえ、いわゆる「いやったらしさ」は感じさせない。「いや〜な気分」は感じさせるけれども。これは本書が、冷静さを装いつつ感情的な批判を展開する手法とは無縁だからなのでしょう。