日夏耿之介

昨日の晩鮭亭日常に、日夏耿之介(本名:樋口圀登)の話が出てきました。日夏の『荷風文学』という本が、平凡社ライブラリーから出るのだとか。これは楽しみです。
私が日夏耿之介の作品に親しんだのは、古本*1ではなくて「新本」で、とくに井村君江編『日夏耿之介文集』(ちくま学芸文庫)によってでした*2。ぜんぶ面白いのですが、第四章「作家趣味」、第五章「書籍趣味」あたりは、本好き必読の文章の類聚になっているのではないかとおもいます。
以下に引用するのは、翻訳についての話。いかにも辛辣です。

日夏耿之介文集 (ちくま学芸文庫)
英文学では平田禿木〔とくぼく〕の名が称せられるのは久しい事ですが、下らぬ俗小説の全集までがニョキニョキ出てこんな立派な翻訳家の翻訳全集が出ないのはどうしたものでありませうか。モダン文章ばかり読んでゐられる人には、平田氏の文章はやや古風で繊細すぎるかも知れませんが、かういふものに目をさらし慣れると、映画の落し子のやうなモダン漫文は見る気がしなくなるものです。辰野隆〔ゆたか〕、鈴木信太郎共訳のロスタン物も洵(まこと)にうまい翻訳で、かういふ訳文を書く以上の人々は、単に仏蘭西(フランス)語や訳文に達してゐるばかりでなく、日本語の古典にいつも目をさらして、日本古典語の美しさと洋語の美しさとを比較計量しながら取捨按排して言葉をとり出すので、生々と鮮かな印象が与へられるのですが、日本古典に盲目なる通弁翻訳家の一夜漬にはその味がないので繰返して読む気がしないのです。(「読書夜話」*3より。『日夏耿之介文集』p.371)

彼女(かのぢよ)といふ言葉は堅い不熟な落付かない訳語彙の一で、昔は彼女(かのおんな)と訓じたが自然派漱石の時代からぼつぼつ小説中に彼女(かのぢよ)として出初めて、今に到る迄不熟のまましかも滑稽の語感をさへ新たに帯びて盛んに行はれてゐる。この彼女(かのぢよ)を頻発する訳文に立派な翻訳のあつた例しは絶えてない。詩に於ては元より言語道断で、これを用ふる(ママ)か否かが語感の鈍不鈍の境目を成すとも言へよう。
今一つはの字を無暗につける事で、爽快さ位は程度(「程度」に傍点―引用者)をあらはす語として存在価値があるが、絶対さ自由さ豪奢さ幽雅さに至つては豪奢幽雅が泣きたいであらう。よさ(「よさ」に傍点―引用者)などは悪い後口の俗語で、すべて恁(か)ういふ用法は通俗文士の低級な語彙語感が、小説や三面記事を通して普遍化したもので、よく軽薄な時勢を示してゐる。
(「訳稾襍言」*4より。『日夏耿之介文集』p.396-97)

さいきん刊行されたもので、日夏耿之介の名訳が読めるのは「伝奇の匣」シリーズ(学研M文庫)で、『ゴシック名訳集成―西洋伝奇物語』ではポオの「大鴉」(ギュスターヴ・ドレ画*5)「アッシャア屋形崩るるの記」が、『ゴシック名訳集成―暴夜(アラビア)幻想譚』では「黄銅の都城の譚」(レイン版に基づく全訳本『壱阡壱夜譚―あらびやんないと―』より。ただし、レインの註釈は省いています。河出書房新社の全集には未収録)が読めます。
今日はFで、江戸川乱歩『わが夢と真実』(光文社文庫)を購う。二箇月ぶりの乱歩全集。ぶ厚くて、値も張るけれども、これは推理小説をまったく読んだことのない方にもおすすめします。とくに前半の「わが夢と真実」は結構楽しめるのではないか。写真多数。人名索引附き。
それから、本に挟みこまれている今月号のチラシには、「※『江戸川乱歩全集』のこれから刊行の収録作品および表題作は、収録作品をより充実させるために、当初の予定から変更がございます」とある。いったいどんな「変更」があるのでしょうか。ひじょうに楽しみです。
図書館で本を数冊借りる。午後の講義を受講した後、先輩の発表を拝聴してから帰る。

*1:全集(河出書房新社)にしろ、国書刊行会の本にしろ、値が張るのです。

*2:モンタギュー・サマーズの『吸血妖魅考』は少し立読みしたけれどもとっつきにくそうだったので買わず、知人がくれた『サバト恠異帖』は、まだ全部を読んではいません。

*3:発表掲載紙誌不明、原文旧字。

*4:初出は「帝国大学新聞」第七八七号(昭和十四年十一月)。原文旧字。

*5:この本には、その詩画集と、画のない(扉絵のみ)ヴァージョンのものとが収録されています。