ありました

曇り。
今日買ったのは、柴田武『ことばのふるさと見ぃつけた―日本語の忘れ物』(ベスト新書)。ベスト新書は、装釘を一新したらしく、とくに背の部分は、「講談社現代新書」かと見紛うほど。ことばのふるさと見ぃつけた―日本語の忘れ物 (ベスト新書)
そうそう、それでおもい出したことがあります。
いま再読している本のなかに、丸谷才一『桜もさよならも日本語』(新潮文庫)がある*1のですが、その冒頭部で、「おやゆびたろうが ありました」の「おかしさ」を論っています(p.12*2)。丸谷氏によれば、これは「おりました」にすべきだ、ということになります。
この意見には反論が寄せられたそうで*3、丸谷氏は、同じ著作のなかで再反論しています(p.49-53)。古語「アリケリ」の「アリ」は現代語とはちがい、「暮す」「住む」の意である、「ケリ」は気づきのケリである、だから「あつたけど」*4「あつたさうな」「あつたとさ」という表現は、「けど」「さうな」「とさ」によって「あり」が古語であることを「ほのめかしてゐる」ので正しい、しかし「ありました」はやはりおかしい、と。
その丸谷氏に反論しているのが、柴田武『日本語はおもしろい』(岩波新書)。柴田氏は、現在の「ある」「いる」の違い*5は古語の使い分けにも対応していて、現代の「ある」は古語の「あり」と同じく、存在を表す語である、と書いています。続けて、次のように書いています。

日本語はおもしろい (岩波新書)
おじいさんとおばあさんが「ありました」というのは、言える言い方ではあっても、現代としては古いことばになりつつあるようである。(中略)かつて(一九八三年五月)丸谷才一氏が朝日新聞紙上で国語教科書批判を展開したことがある。そのとき、「ありました」があやまりで「おりました」とすべきだというような主張があった。さっそく同紙の論壇に国語学者からの投稿があって、それは「伊勢物語」の「昔、男ありけり」の流れを汲む伝統的な言い方だとして、氏の不明が指摘された。
その後、この教科書批判の文章を含む『桜もさよならも日本語』(新潮社、一九八六年)という単行本が出た。そのなかで、論壇に出た反論に対して反駁している。「ありました」というのは、「昔話の再話者たちの誤まりである。彼らは語感が鈍かつた」と切り捨てている。ハナハト読本の著者、文部省も、丸谷氏によれば「語感の鈍い彼ら」のひとりになる。そして、人の場合にアルを使うのは、例外的に「人を物あつかひするとき」だとする。はたして、そうだろうか。
いずれにしろ、丸谷氏のような人がいる、また、丸谷氏のような人があるということは、それがひとりやふたりでないことを思わせる。ただ存在だけをさりげなく述べる「ありました」から始める静かな語り口は、もはや現代の好みではなくなったらしい。(『日本語はおもしろい』,p.130-31)

ちなみに、三浦つとむ氏もこの問題について、

存在表現の「ある」は、「いる」に代えられた場合が多いのですが、時間的・空間的な特殊性を扱わないきわめて抽象的な人間のとらえかたの場合には、いまもって人間に「ある」を使うのです。
三浦つとむ『日本語はどういう言語か』講談社学術文庫,p.153)

と書いていました。
それから、『日本語相談』*6にも、かつて「ある」「いる」はどう使い分けるべきか、というような質問が寄せられているのですが、これに回答しているのは丸谷氏ではなく、井上ひさし氏です。井上氏は、

井上ひさしの日本語相談
〈人や動物が、具体的な、ある場所に一時的に存在していることをあらわすときには「いる」を用いるが、ただし、漠然と有無を問題にするだけなら、「むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんがありました」のように、「ある」を用いることができる〉*7
この有情と非情はなかなか奥が深く、書くべきことは多いのですが、浅学菲才の筆者にとって幸福なことに、もはや紙幅がありません。
ちなみに、有情と非情の区別の基準は多分に話者の主観に左右されます。
(『井上ひさしの日本語相談』朝日文庫,p.116)

と書いています。
かつて某所で、「ある」「いる」に関する論文の存在を教えて頂いたことがあって、すぐにコピーしたのですが、一昨年のことで、これがドコに行ったのか分からない。またコピーしなおして、ちゃんと読んでみようと思っています。―長くなりましたが、柴田武先生の本と、『桜もさよならも日本語』とから、以上のようなことを思い出していたというわけです。

*1:この本に、『洛中書問』のことも出てくる(p.130-33)。すっかり忘れていました。いや、忘れていた、というのは正確ではないので、私がこれを最初に読んだころは、『洛中書問』という書名さえ知らなかったのです。

*2:もともとは、朝日新聞に掲載されたものだそうです。後の引用部を参照。

*3:「(人が)ありました」という表現は、『伊勢物語』の「昔、男ありけり」の流れを汲む語法であって誤りではない、という反論。

*4:「ドはト(イフコトダ)で、ケは伝聞のケ」(p.52)、と丸谷氏は書いている。

*5:「いる」は、「自分で動いて進むものがとまっている状態にある」を表すが、「ある」は、ただ物の存在を表すだけであるということ。

*6:朝日文庫から四分冊で出ています。井上ひさし大岡信大野晋丸谷才一の四人が回答者。なぜか、数年前に再び単行本化(朝日新聞社)されました。画像は単行本版。

*7:文法書等を参照したらしい。井上氏は、「ある」「いる」の使い分けに三つの原則を立てており、三つめがこれです。