茶碗の中

怪談 [DVD]
新編 百物語 (河出文庫)
志村有弘『新編 百物語』(河出文庫)に、「茶碗の中の顔」という話が収めてあります(第九十九話)。神谷養勇軒『新著聞集』第十の一篇であるということを、実は今まで知らずにいたのですが、これは、小林正樹によって映画化されたことがあります。
正確にいうと、小泉八雲『怪談』の一篇として。
小林正樹『怪談』(1964)は、当時としては破格の製作費三億二千万円(!)をつぎ込んでようやく完成にこぎつけたオムニバス作品です(撮影期間は九箇月)。八雲の『怪談』から、「和解」「雪女」「耳無し芳一の話」「茶碗の中」の四つを選んで映像化しています。
オール・セット撮影で、とくに「耳無し芳一の話」のクライマックスである源平合戦のセット撮影は、一見の価値ありと信じます。この映画は、恐怖そのものを描いているというよりも、むしろ頽廃的かつシュールレアリスティックな世界を現出することに主眼がおかれているのですが、「茶碗の中」にはさすがにゾッとしたのを覚えています。式部平内に扮する仲谷昇*1の不気味なメーキャップはさることながら、幽霊がなぜ関内(中村翫右衛門)のもとに現れたのかが分らないまま終る―という不条理なプロットがとにかく恐ろしかったわけです。
さて映画版は、八雲の原作*2をもとにしているので、

不思議なことに、日本の昔話の中に同じような感情を起こさせる未完の話がいくつかあります。作者がなまけものだったからでしょうか、あるいは出版社と喧嘩をしたせいでしょうか。用事で机をはなれて、それきり戻ってこなかったせいでしょうか。あるいは、作者が急死してしまい、筆が話の途中で止まってしまったからでしょうか。(小泉八雲著,池田雅之訳)

という、再話体としての前口上に忠実です。しかし、八雲の原作が「結末をいくつか考えてみましたが、どれも西洋人の想像力を満足させるに足るものがありません」と結んでいる一方で、映画版は新たな「結末」を用意しています。この演出が実にお見事。小林正樹、製作の若槻繁、脚本の水木洋子の三氏に、心からの拍手を送りたい。
次に、今日の朝に読んだ小説の話。
徳川夢声の小説は読んだことがなかったのですが、文藝春秋編『昭和のエンタテインメント(上)』(文春文庫)に「オベタイ・ブルブル事件」が収められていたので読んでみました。初出は『新青年』(1927.4)。
日本英学会の権威、井上三喜博士が或る夏の晩、「オ・オベ・オベタイ・ブルブル」という謎の言葉を遺して死んだ。単なる心臓麻痺として処理されたが、博士夫人は納得がいかない。その謎に立ち向かうのが、我らが私立探偵、六車家々*3―というお話。全篇、活動辯士調になっていて、マエセツまでついています。娯楽小説でありながら、同時に世を諷刺した作品になっています。
特に「映画亡国論」に対する批判は、現在でも充分通用するものです。
『昭和のエンタテインメント』に収められている小説には、それぞれ著名人による「プロフィール」がついていて、これがまた、良質のエッセイになっています。「一粒で二度美味しい」、といった具合なのです。
徳川夢声の「プロフィール」は中村メイコ。次のくだりなんて、たいへん可笑しい。

話術について先生(徳川夢声のこと―引用者)からは、こと細かに教えられたことが多い。なアに、しゃべっているのが良いわけじゃあないよ、間を取りなさい、間が大切なんだ。そう教えられた私が、後年、夢声先生が生放送の時、黙って天井を睨んでいらっしゃるのを、ああこれを見習わなくちゃ、良い間だなあ、すごい間だなあ、名人芸だなあと思っていたら、あとで小さな声で、「あれは忘れてたんだ」とおっしゃった。(p.72)

*1:当時は中谷昇。同じ文学座岸田今日子と結婚しましたが、二十数年後に離婚しました。

*2:八雲の「怪談」では、天和三年正月の話ということになっていますが、「新著聞集」では、天和四年正月の話ということになっています。

*3:シャーロック・ホームズの「シャーロック」をひっくり返して「六車」、「ホームズ」に「家々」と宛てたわけです(むろん、綴りは違いますが)。