モーツァルトと日本人

家でレジュメ作りに勤しむが、形式ばかりに拘泥してしまって、なかなか思い通りにゆかぬ。
平凡社新書290 モーツァルトと日本人/井上太郎
井上太郎『モーツァルトと日本人』(平凡社新書)読了。日本におけるモーツァルトの作品、そして「モーツァルト論」の受容史。パウル・ベッカー 河上徹太郎訳『西洋音楽史』(1941)が日本人のモーツァルト観を変容させ、むしろ戦後において日本人による「モーツァルト論」が百出したという話。著者は、アルバート・アインシュタイン 浅井真男訳『モーツァルト その人間と作品』(1961)の「訳者あとがき」や、アンリ・ヴァンジョン・ゲオン 高橋英郎訳『モーツァルトとの散歩』(1964)の「訳者あとがき」を引いて、モーツァルトの調べの中に存する「通俗的見解によっては説明しえない『或るもの』」(浅井)=「現代のわれわれが失ったある種の音調」(高橋)を探るために、「戦後の日本人がモーツァルトに熱中した」(p.189)のだ、と結論している。
また、小林秀雄が軽視したオペラを、河上徹太郎大岡昇平が「再」評価した、という話は面白かった(しかも大岡の場合、「スタンダリアン」でもあったのだから!)し、たまに挿入される彼らの逸話も面白く読んだ。たとえば、「大岡昇平は手垢で黒くなったこの本(アインシュタイン前掲書―引用者)をいつも手元に置き、『今度この曲のレコードを見つけたぞ』と自慢していたものである」(p.185-86)という話など。
もちろん、このテの受容史では個人的体験を語ることも重要なので、そのあくまで主観的な体験が著者固有の時間を離れ、歴史の大局に組み込まれてゆく過程を見るのもまた楽しいものである。そうしてそれは、著者の「○○歴」が長ければ長いほどいっそう輝きを増す。ちなみに、井上氏が「モーツァルティアン」を自認するようになってから、なんと「六十年」が経とうというのだから恐れ入る。
ところで、私のモーツァルトとの最初の出会いは、シンフォニー「四十番ト短調」であった。実は、カップリングになっている「四十一番ハ長調『ジュピター』」を聴こうと思ってCDを買ったのだけれど、四十番の一楽章「モルトアレグロ」の冒頭部は、まさにガーンと私の頭を搏った。これは大袈裟ではないので、第四楽章「アレグロ・アッサイ」を聴きおえるころにも、はげしい胸の鼓動がまだ収まらなかった。このような「最初の」出会いはやはり大切なものである。私の場合、いかにも深刻ぶって大仰に奏するでもなく、かといってやけに朗らかに鳴らしたり楽しげに奏したりするでもないカルロ・マリア・ジュリーニ&ニュー・フィルハーモニアの演奏(1965)で聴けたことは、まさに幸運であったと言わねばならない。しかし、井上氏が引いている遠山一行氏の次の言葉―「モーツァルトの純粋さということを口にする時に、むしろ、人は、不純な文学的空想を楽しんでいるのではないか。私は、そのような純粋さを信じない」(p.165)―を、もって自戒の言葉にしたいと思った。
七番日記 (下) (岩波文庫)七番日記 (上) (岩波文庫)
夜、「廿世紀シネマ・ライブラリー」より短篇二本―亀井文夫信濃風土記より 小林一茶』(1941,東宝)と高原登『俳人芭蕉の生涯』(1949,東宝教育映画)―を観た。いずれも徳川夢声が解説を担当している。前者は一茶の句を十八句、後者は芭蕉の句を二十一句紹介している。また前者には、一茶四代の孫に当る小林弥太郎氏がちらと登場する。それでいま、丸山一彦校注『一茶 七番日記(上)(下)』(岩波文庫)を引っ張り出して見ていたところである。

古郷や よるも障(さはる)も茨(ばら)の花(文化七年五月)

是がまあ つひの栖(すみか)か雪五尺(文化九年十一月)

下下も下下 下下の下國の涼しさよ(文化十年六月)

痩蛙 まけるな一茶是に有(文化十三年三月)

露の世は 得心(とくしん)ながらさりながら(文化十四年五月)