杉山茂丸

耳が痛い。しかし、「大学院進学」は、私なりに悩みぬいた末での「結論」であった。学部四年生の頃は、さんざん悩んだせいで後頭部脱毛*1の憂き目にも遭った。
そして、つらい。「山高故不貴 以有樹為貴(山高きが故に貴からず*2、樹有るを以て貴しとす)」。『実語教』の冒頭部(以下、「人肥故不貴 以有智為貴」とつづくらしい)。これを下略したものが人口に膾炙しているが、元来の表現について、山田俊雄『ことば散策』(岩波新書,1999)が書いていた(p.138-42)ことを思い出した。
玄洋社」「杉山茂丸*3夢野久作」つながりで二冊。多田茂治夢野久作読本』(弦書房)、鶴見俊輔夢野久作 迷宮の住人』(双葉文庫)。前者は再読。後者は、積み上げた本のなかからようやく「救出」したもの。

久作は『近世快人伝』で、玄洋社員では頭領の頭山満と奈良原到の二人を採りあげていますが、久作の筆は頭山よりも奈良原のほうに熱が籠っています。不遇な生涯を送った奈良原到こそ、武部(小四郎。興志塾のリーダー。西南戦争で刑死―引用者)の最後の雄叫を臓腑の腐り止めにして、真正の玄洋社エートスを体現した人物と見なしたからでしょう。(多田前掲書,p.64)

その奈良原到について、『玄洋社社史』は以下のように書いている――。

奈良原*4、明治八年箱田六輔、中島翔等と堅志社を興し、大に逭年子弟の元氣涵養に努む、來島恆喜、月成功太郎、成井龜三郎、内海重雄、中山繁等皆社中に在り、明治九年萩の亂に呼應せんと企て、箱田、頭山、進藤等と又開墾社を興す、彼の大久保暗殺の報到るに及び、頭山と共に南海に板垣を訪ひ、大に議論を上下して其自由民權説に賛し、板垣愛國社再興の意あるを聞き頭山と共に再び福岡に歸來し、大に民權伸長の爲に奔走す、奈良原又意を對外關係に用ゐ、平岡、頭山等と畫策する所多し、明治十二年血痕集を著し、後ち玄洋社史の著あり、今尚ほ玄洋社中に起臥し、進藤社長を扶け子弟の繁養に努むる尠からず。(p.656)

全く連関のなさそうな本から、次のような記述を見つけるのもまた楽しからずや。

(松本)治一郎が杉山茂丸と会ったのは、博多港へ向けて走らせる電車の敷設工事をめぐってだという。杉山茂丸の実の孫、三苫(みとま)鉄児が言う。
「大正六年ですよ。松本治一郎と茂丸が会って、いまでいう談合ですな。博多港に電車を走らせる、その線路の敷設工事を松本組が請け負ったわけです」
歩いている道は違う。ビジネスでなら組めるということか。
その杉山茂丸の長男とは、小説家の夢野久作である。(中略)治一郎と杉山茂丸の関係を語った三苫鉄児は、その夢野久作の息子*5である。
三苫によれば、夢野久作も治一郎に会ったことがあるという。正確には「見た」と言ったほうがいいか。
昭和八年か九年ころ、福岡市内の路面電車三苫は夢野につれられて乗った。すると夢野が、カンカン帽をかぶって座っている大柄な男に眼をやって言った。
「あれが松本治一郎という偉か人や。おぼえておきなさい」
高山文彦『水平記―松本治一郎と部落解放運動の一〇〇年』新潮社,p.49)

その三苫鉄児(鐡兒)は、多田茂治夢野久作読本』にも登場する。夢野久作の『骸骨の黒穂』にふれたくだり(p.195)。この作品は、水平社に糾弾されたことがあるという。
また、百川敬仁『夢野久作 方法としての異界』(岩波セミナーブックス)の第二章「父・杉山茂丸―〈もののあわれ〉の伝統」を読む。『青年訓』『俗戦国策』『百魔』などからの引用あり。

醜いエゴイズムにまみれた人間にも光り輝く瞬間があることが信じられれば、生きることの意味も信じられるかもしれない。そんな光り輝く瞬間というのが、茂丸にとっては〈もののあわれ〉の昂揚する瞬間にほかならなかったのだ。なぜなら、その瞬間、ひとは他人のために自己を犠牲にすることもいとわないからである。そうしたものとしての〈もののあわれ〉を茂丸の眼前に魔法のように出現させるものこそ、ほかならぬ義太夫浄瑠璃だったということになる。(p.140-41)

いよいよ、「杉山茂丸」という人がわからない。

*1:二箇月くらいで回復した。

*2:この場合は、「とうとからず」ではなく「たっとからず」と読む習慣があったらしい。

*3:彷書月刊』八月号は、まだ読んでいない。

*4:目次では、なぜか「奈良原至」となっている。

*5:正確にいうと次男。長男は杉山龍丸である。