私たちが生きた20世紀

要旨をまとめる。アルバイト。読書。等々。
私たちが生きた20世紀〈下〉 (文春文庫)私たちが生きた20世紀〈上〉 (文春文庫)
本棚から、文藝春秋編『私たちが生きた20世紀(上)(下)』(文春文庫)が出てきた。あらためて読み直してみると、これが実に面白い。
二〇〇〇年二月に出た『文藝春秋』臨時増刊号を文庫化したもの(新たに七氏のエッセイを収める)なのだが、いま見ると、この五年間で亡くなってしまった執筆者も多い。たとえば、林健太郎河盛好蔵島田正吾中野孝次三波春夫梶山静六古山高麗雄山本夏彦金田一春彦網野善彦草柳大蔵…。
下巻には、金田一春彦「学者三代」という文章が収めてあるのだが、読んだ記憶がないので読んでみた。

若い人たちは本屋で京助の名前を見て、辞典をたくさん編集した人だとお思いであろうが、京助自身は辞典の編集はほとんどやっていない。あれは大抵他人の編集したものに「編修」とか「監修」とかの名前を貸したものである。自分の教え子で生活に窮するような人が原稿を持って来て、京助の編集ということにしてくれと言われると内容もよく調べないで、簡単に名前を貸してしまう。私はいつか「そんな無責任なことを」と咎めたら、「おまえは金もうけのために辞典を作っているのだろうけど、私はお金のためでなく、人を助けるためにやっているんだ」という始末で、よく言えば人がいいのだろうが、私たち家族は随分と心配させられた。本人は辞典の編修(ママ)というようなことは苦手で、言葉の解説の原稿を書かせると随筆になってしまう。彼が中心になって作った国語辞典としては戦後三省堂から出た『辞海』というのがあったが、あまり評判がよくなくほどなく絶版になってしまった。(p.94-95)

末尾のほうでは、金田一真澄氏や金田一秀穂氏も出てくる。

初代京助が学者として名をあげ、二代目春彦はテレビなどで著名になったが、学者としては業績はあまりあげなかった。三代目の真澄、秀穂は学者としてどうなるだろうか。(p.97)

「二代目春彦は…」以下は、金田一先生「一流の」ご謙遜とお見受けした。

【ブログ名のゆらい】

さて、ブログを開設して二百日を突破したことですし、ここらで明らかにしておくことにしましょう。「黌門客」というタイトルは、実はプロフィールにあるような意味を込めただけのものではないのです。
熊本にお詳しい方(あるいは漢学に造詣のふかい方)ならピンと来るかもしれませんが、「熊本県立済々黌高等学校」を多分に意識してのことなのです。「せいせいこう」。何と響きのよい「黌名」であることか。
いま「黌名」と書きました。済々黌は、たとえば「校歌」は「黌歌」と表記し、「校門」は「黌門」と表記するのです*1。そう、「黌門客」の由来はここにもあるわけです。
ちなみに「済々黌」の「済々」は、『詩經』の「濟濟多士 文王以寧(濟濟たる多士 文王以て寧し)」(大雅 文王)に由来しているのだそうです。

*1:つまり「(学)校」=「黌」とみてよい。だとすれば、「済々黌高等学校」は重複表現だということになる。