ゆとり教育は何処へ

また昼から大学。
石原千秋『国語教科書の思想』(ちくま新書)を買う。まだ読み始めたばかりだが面白い。国語、特に現代文の教科書は「道徳」の教材に他ならない、という話。そのあたりを読んでいると、深代惇郎の「政治的でない教育はない」というエッセイを思い出した。と言っても、つい最近読んだばかりなのだが。

善い人間、悪い人間を教えようとするとき、教育はすでに一つの価値体系を選択している。だから、それは政治的な立場に立っている。(中略)いずれが正しいかにせっかちな結論を出すより、人によって「正しさ」が異なるのはなぜかを教えることの方が、すぐれた教育だと思われる。
(『深代惇郎エッセイ集』朝日文庫,p.121-22)

さて、石原氏はこう書いている。

正解が出せなくてまちがってしまうレベルまで子供の可能性を試し、なぜまちがえたのかを考えることでその子供が人間として理解できる。それが、教室のダイナミズムというものだ。教育にとって、まちがいほど収穫の多いものはない。特に、国語という教科ではそうだ。(p.36)

なるほど。これは「ゆとり教育」に向けられた批判。
ふたたび深代氏に戻る。彼は、学歴信仰に批判的な文章を書いているので(「学歴という免罪符」)、次のようなことも書いているのは意外な感じがする。

昔の人が文章感覚にすぐれていた大きな理由は、すぐれた文を暗誦したせいもあるのではないか。古典を暗記し、百人一首を口ずさむような子どもは珍しくなかった。
「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」などと、すらすらという。こういう重層的な意味を持ち、きわめて象徴的な歌を、子どもが理解できるはずはない。しかし何度も口にするうちに、文章に対する感覚が養われていく。それは早期に音楽教育をうけた子が、知らぬ間に絶対音感を身につけることと似ているのかもしれない。「丸暗記は悪」と真っ向唐竹割りできめつけるのは、いささか浅薄な近代合理主義ではあるまいか。(「『が』と『は』について」p.139)

しかもこの文章は、一九七五年の七月に書かれている。わが国において、学校系統とカリキュラムの多様化が推し進められつつあった時代。そのころに書かれた文章である。それゆえに、これはラディカルな「ゆとり教育」批判として響いたに違いない。
岩木秀夫『ゆとり教育から個性浪費社会へ』(ちくま新書)によれば、イギリス(サッチャー政権下)やアメリカ(レーガン政権下)において市場原理を導入した「新自由主義改革」(脱近代能力主義)が推進されるようになった頃、日本の教育改革も欧米を手本とするところから出発したのであるが、「臨時教育審議会」の“逆ベクトル”の理念にもとづいた「ゆとり改革」に方向転換してしまったのだそうである。その「多様化」→「画一化」という欧米の改革と、日本の「画一化」→「多様化」という改革を比較して、両者の着地点が接近しつつあるのだ、という見方もあるそうだが、それに岩木氏は与していない。…と、これは余談。
いずれにせよ、「ゆとり教育」批判は保守派の専売特許でなくなった、というような書き方からはじめて、自らの立ち位置を獲得しておくやり方は見られなくなったし、またその必要も無くなったみたいである。