虚構の人・井上光晴

寒。夜から雪ふる。
どうやら、風邪をひいたらしい。
症状はそんなに大したことはないのだが、いや、だからこそ、今のうちに治しておきたいのだ。取り敢えず、薬を飲んでおいた。
この状態が明日までつづくならば、他人にうつしてしまいそうなので、大学へは行けないだろうな。
全身小説家 [DVD]
朝、パソコンに向かっていたら、集中力が途切れてきたので、一昨日、半分ほど鑑賞した原一男全身小説家』(1994,疾走プロダクション)を、最後まで観た。ドキュメンタリー映画の白眉である。
カメラは、「作家『井上光晴』」という被写体を執拗に追いつづける。しかし、彼が癌に侵されていたことが明らかになると、作品はいっそう「ノンフィクション」の傾向をつよめていく。生々しい施術シーンもあり、おもわず目を背けてしまった。
この作品について、井上荒野『ひどい感じ―父・井上光晴』(講談社文庫)は、以下のように書いている(ちなみにこの映画には、荒野さんもちらと映る)。
ひどい感じ──父・井上光晴 (講談社文庫)

病気がわかる前から、原一男監督が父のドキュメンタリーを撮ることになっていて、その撮影も、その年の終わりからはじめられた。いきおい闘病の日々がカメラの前に曝されることになったけれど、かまわない、と父は言った。むしろ積極的に撮影に協力した。肝臓の手術の日、手術台の上で開かれた内臓を撮影することさえ許可した。
戸惑ったのは、私たち家族のほうだった。正直にいえば、残り少ない最後の日々を、カメラに侵食されてしまった、という思いもある。(p.182)

作品の前半部は、井上のやや朴訥ではあるが巧みな話術が提示されつつ、文学伝習所の生徒(特に女性)の証言から構成されている。しかもその証言群は、あたかも「宗教の形式を愛玩」(林房雄)しているかのようだ。
ところが、井上光晴が肝臓癌の手術を受けたあたりから、内容が一変してしまう。井上が周囲に語っていた、自身の生い立ちにまつわる「劇的な」エピソードの数々が、どれもこれも虚構であったことが次々に判明していくのだ。フレームによって切り取られるかぎり、もはやそれは「真実」ではないと思うのだが、そうした〈邪推〉さえ通用せず、いとも簡単に裏切られてしまう。ともかくも、作品の目指す方向はここでよく分らなくなってしまう。
結局この映画は、井上光晴の「死」によって幕を閉じる。その「死」というゆるぎない事実を前にして、井上が生涯を賭して吐きつづけていた「嘘」、つまり虚構が無力化されるわけでは決してないが、鑑賞後に何とも云えない余韻を残す。
またこの映画には、埴谷雄高瀬戸内寂聴野間宏らが出てくる。瀬戸内が弔辞を読み上げるシーンはもちろんだが、埴谷が病室内の井上に対して、怒ったように「病人が気を遣ってどうするんだ」と、何度も言い聞かせるシーンが印象に残る。
ところで私は、ドキュメンタリー映画の醍醐味は、被写体のふるまいがフレームに収まりきれず、当初の予定とは様相の全く異なった作品が出来上がってしまうことにこそある、と思っている。つまり、監督やその他のスタッフが作品自体を御しきれなくなるのだ。
『にっぽん零年』(1968)がその好例であろう。これは、学生運動にのめり込んでゆく青年や、自衛隊に入隊した青年にインタビューをするという内容の作品であるが、次第に激しさを増す学生運動によって、撮影中止を余儀なくされそうになった経緯がある。そのことで、スタッフ間に意見の食い違いがあったらしく、UとSが監督を降板した。その後、藤田敏八(矢)らのゲリラ的な撮影によって、なんとか完成にこぎつけたのだが、この作品はなんと三十年間も封印されることになる(1995年にようやく日の目をみる)。