晴。午後から大学。
書籍部で、志村五郎『中国説話文学とその背景』(ちくま学芸文庫)購入。志村五郎とは、「谷山・志村予想」*1の志村五郎である。元阪大教授にして、プリンストン大名誉教授。説話・随筆蒐集を趣味にされていたとは。
夜、録画しようかと思っていた『蒼い描点』を結局ぜんぶ見てしまう*2。
うーん。正直にいって、可もなく不可もなくという感じだった。後半の展開にはやや「だれ」を感じてしまった(役者のせいではないと思いたい)。作家先生(ドラマでは黒田福美)の出処進退は、原作どおりでも良かったのではないか(長篇の映像化はやはりむつかしいものです)。
村松秀『論文捏造』(中公新書ラクレ)を読みはじめる(NHKの特番をもとに構成された本であるが、私はその特番を見たことがない)。これがすこぶる面白く、五十頁ほど読んでから寝ようと思っていたのに、半分まで読んでから寝た。コンスタンツ大学のスパッタ装置=マジックマシンは、あの旧石器捏造の「ゴッドハンド」を想起させる。但し藤村のケースと異なっているのは、ヤン・ヘンドリック・シェーンの場合、「ベル研究所」「バートラム・バトログ」という権威と強力な後ろ楯とが存在していた、ということではないか。
世界各国における追試で費やされた、莫大な研究費と気の遠くなるような時間の長さを考えても、実験データ捏造の罪の重さにははかりしれないものがある。
科学研究が論文になり、科学界に受け入れられていくのは、その研究が真理であると認められたからである。真理は、誰が実験を再現しても同じ結果が出るからこそ、真理なのである。つまり「再現性がある」ことは、研究内容が正しいかどうかを判断する上で必須のもののはずだ。
しかし、シェーンをめぐる状況は違っていた。マジックマシン伝説が生まれるほどに、ある意味で「再現性がない」ことがシェーンの研究の素晴らしさ、革新性を増大させていった。極論すれば、「再現性がない」ことによって、かえって彼の研究が「真理」と受け取られていってしまったのである。(p.100)
心に残った、谷垣勝己さんの言葉。
数学なら、ひとつの例外さえ提示できれば、その証明が正しくない、という証拠になります。ところが、実験物理学の世界では、嘘である、ということを証明するのはきわめて難しいんです。実験を100回やりました、100回ともすべてうまくいかなかった、だから全部嘘でした、とは決していえません。(p.116)
ところで、同書p.28に、「工学系、特に電気電子系では『超電導』と表記するが、物理の分野では『超伝導』と書き表すのが一般的だ」とある。この表記の問題に関しては、金武伸哉『あってる!? 間違ってる!? 漢字の疑問―「ことば」は生きている』(講談社+α文庫)pp.60-63に詳しい*3。物理の分野で「伝導」とするのが慣習になっているのは、「まず『伝導』(conductivity)という物理学用語があり、熱伝導、電気伝導などと使われていた」(p.60)ためと思われる(物理学会でも「超伝導」に統一するという正式な決定がなされたそうである)。
明日からしばらく、日記の更新をお休みします(十四日頃に再開する予定です)。