『波の塔』のことなど

録画していた松本清張ドラマスペシャル『波の塔』(TBS系列)を見た。小泉孝太郎の演技は以前とくらべるとずい分よくなっている(四十六年まえに、映画版『波の塔』(監督は中村登)で小野木を演じた津川雅彦は、小泉の演技を「僕よりも巧い」と絶賛したそうだが*1、これはもちろん謙辞でもあろう)。
この作品の結末は、原作の小説が発表された段階で確かに有名にはなったけれども(だから何度も映像化されたわけだ)、清張と速記者の福岡隆のあいだでは「結末をどうすべきか」ということで見解が分かれ、「激論」がかわされたことがあるらしい(『人間・松本清張』)。しかし取材に同行した櫻井秀勲は、「もっとも当り前な一読者」(清張による人物評)の視点から、「(樹海の―引用者)実に細かいところを観察し、巧みな表現力で、ラストの暗示を盛り上げていくその筆力は、私としては、当時の作家で、先生にまさる人はいない、と思ったものである」(「『波の塔』の思い出」,文藝春秋編『松本清張の世界』文春文庫2003,p.669)と書いているから、取材の段階で、清張には腹案が既にあったのではないかと考えられる。
ところで、福岡隆『人間・松本清張―専属速記者九年間の記録』(大光社,1968)には、おもしろいウラ話が書かれている。

また『波の塔』ではほほえましい思い出がある。この小説がベストセラーとなり、有馬稲子主演で映画化されたことから深大寺が一躍有名になったことである。それまで休日しか人の訪れなかったこの寺に平日も行楽客の姿がふえ、それも若い男女が多くなった。まるで小野木と頼子になった気分でデイトしている姿には門前そば屋の人たちも苦笑していたが、商売繁昌しているところをみると、まさに『波の塔』さまさまのようであった。(pp.55-56)

『波の塔』には関係ないけれども、次のような話もまた面白い。

砂の器』では、ちょっと面白い思い出がある。今西刑事が一橋の国立国語研究所に桑原文部技官を訪問するところだが、この桑原技官は、四十年輩の、痩せて、眼鏡を掛けた男になっている。しかも方言の専門家という設定なので、これから推理すると、どう考えても柴田武さんとしか思えない。
そこで、国立国語研究所では、これは福岡が松本さんにしゃべったに違いないということになり、私の話があれこれと出たそうである。というのは、国立国語研究所監修の『言語生活』筑摩書房発行)は創刊以来十年間、私が速記を担当していたからである。したがって内部事情にも通じていたので、これだけ正確に描けるのは私の入れ知恵だろうと、濡れ衣をきせられてしまった。これは全くの濡れ衣で、松本さん自身が某氏から聞いた知識をもとにして書いたものである。後年、『言語生活』の創刊十五周年の祝賀会に招かれたとき、東京外語大教授になられた柴田武さんにお目にかかり、当時のことを詰問されたが、私は以上のことを釈明しておいた。(p.84)

ところで『人間・松本清張』は、清張作品の創作事情を知るうえでも色々の面白い情報を与えてくれる。
例えばその一例――「私は賭けごとの嫌いな松本さんに一回だけ馬券を買わせたことがある。まだ上石神井時代であったから、おそらく三十六年のダービーだったと思う」(p.46)という記述から、清張ファンは何を想像するか。それは、『渇いた配色』(死の発送)があるいはこの体験をもとにして書かれたのではないか、ということ。
そこで、中公文庫版『渇いた配色』に拠って発表年をみてみると、『週刊公論』の「昭和三十六年四月十日号」から掲載が開始されたことになっているので、これは強ち根拠のない暴論ともいえないのではないか(但し、昭和三十六年当時の日本ダービー東京ダービー――地方ダービーには他にどんなものがあるかよく知らない――は五月に開催された様である*2)。
また、「三十五年の十月ごろ」の次のような出来事も気になる。

文芸春秋』別冊の新春特大号に読切りを頼まれたことがある。
松本さんはいいテーマがなくて困っていた。原稿締切りは容赦なく迫ってくるので、松本さんの眉間の皺は次第に深くなっていった。そばで見かねた私が、日本速記術の創始者田鎖綱紀翁のことを書いては、と助け舟を出した。困り果てていた松本さんは、この案にすぐ飛びついてきた。
そこで、秘書のIさんを自由ケ丘に走らせ、綱紀翁の孫であり私の友人である田鎖源一君から資料を借りてこさせた。一方、私もだいぶ前に綱紀翁の伝記を執筆したことがあり、原稿用紙にして百枚ぐらい出来ていたので、それを松本さんに提供した。(p.67)

福岡隆『日本速記事始―田鎖綱紀の生涯―』(岩波新書,1978)が、岩波の『文学』に連載されたのが昭和五十二(1977)年十二月から翌年七月にかけてだそうだから(『日本速記事始』の「あとがき」による)、その「根幹になるもの」は、十七、八年も前に纏まっていたということになる。

*1:津川は、今回のドラマスペシャルにも結城庸雄役として出演している。

*2:文中の「ダービー」は、あるいは一般名詞として使われているのだろうか? だが、福岡は「ダービー」を他と厳密に区別して使っているようである。