『竹取物語』

「すんげー!*1ベスト10」時代(十一、二年前)の「スミス夫人」「君と僕」「シェイクダウン」あたりが懐かしいから、『M-1グランプリ』で「ザ・プラン9」を応援する(チュートリアルも好きなので応援)。とくに久馬が好き。「二丁目ワチャチャ劇場」全盛期は、「フットボールアワー」の岩尾がいたコンビ名も「ドレス」だったっけ。そんなに目立っていなかったけれど。
勝利の女神は誰に爆笑するのか?」というキャッチ・フレーズに、「勝利の女神」は一人じゃなかったのか、とツッコミをいれてしまう(心の中で)。
竹取物語』を再読してみた。最後に出て来る「飛車」を、冗談か本気かは分らないけれど〈UFO〉と解した人があって、その系譜上にあるのが、沢口靖子主演『竹取物語』。市川崑によるSFX(!)超大作である。これは十六年前に地上波で観た記憶がある。
原作の『竹取物語』で可笑しいのは、主に求婚者が失敗する各話の最後が、語源俗解というか、殆どギャグといってもおかしくない「語源説」で結ばれていることである(つまりオチになっている)。たとえば(以下、島津久基校訂『竹取物語岩波文庫S.29第17刷に拠る)、

夜は安き寝(い)もねず、闇の夜に出でても穴を抉(くじ)り、此處彼處より覗き垣間見惑ひあへり。さる時よりなむ、よばひとはいひける。(p.10)

かれ鉢を棄てて又いひけるよりぞ、面なき事をば、はぢを棄つとはいひける。(pp.15-16)

或人のいはく、「裘(かはごろも)は火にくべて燒きたりしかば、めら/\と燒けにしかば、赫映姫婚(あ)ひ給はず」といひければ、これを聞きてぞ、利氣(とげ)なきものをば、あへなしとはいひける。(p.27)

といった感じで、他にも、「たまさかる」(p.23)「あなたへがた」(p.32)「かひなし」(p.35)「かひあり」(p.36)などの「語源説」が説かれている。特に、「ふじの山」=「不死の山」(p.51)は有名かもしれない。
校訂者の島津久基は解説中で、これらの言語遊戯は「言語上の機智的な洒落」(p.88)であると述べ、そこに落語的要素を見出しているようなのである。
そう云えば『竹取物語』が「よばひ」は「夜ばひ」だ、と洒落ていることについては、紀田順一郎も書いていた。

かぐや姫をねらう夜這い連中は、「夜はやすき寝(い)もねず、闇の夜に出(い)でて穴をくじり、かひばみまどひあへり。さる時よりなむ、よばひとは言ひける」
夜陰に乗じて、垣根に穴をあけてのぞきみ、胸をこがした。これが夜這いの語源だという作者の冗談だが、後世の感覚を先取りしている。(紀田順一郎『日本の書物』ちくま文庫,p.46)

紀田氏も、獅子文六の『大番』にみえる「ヨバアイ(愛)」説を否定しながら(しかし文六先生もどこまで本気だったのか)、「夜這いは、呼ばいである」(同,p.44)と書いているように、「夜這い」の正式な語源としては、この「連用名詞形」(転成名詞)説を採るのがまず順当なところだろう。因みに、動詞「呼ばふ」は、『竹取物語』にも「祝詞(よごと)を放ちて立居(たちゐ)、泣く/\呼ばひ給ふこと、千度(ちたび)ばかり申し給ふけにやあらむ、やう/\雷(かみ)鳴り止みぬ」(p.30)と出て来る。
紀田氏が拠っているのは、「日本古典文学大系」(いわゆる「旧大系」)版『竹取物語』の底本「武藤本(天正廿年の奥書を有する)」を翻刻したものかと思われるが(併し表記に小異がある)、岩波文庫版のものは有名な田中大秀『竹取翁物語解』に拠っている。これらは内容がずいぶん異なっているが*2、「日本古典文学大系」本の指摘するところによると、「(田中大秀本は―引用者)ただかなりに恣意的な本文校訂を行っていることを否定できない」(p.22)のだそうである。
それはともかく、『竹取物語』が面白いのは言語遊戯のほかにも幾つかあって、そのひとつを挙げれば色々の話型というかモティーフを取り込んでいることである。(大きな括りとしては)「貴種流離譚」だとか、(細かい点では)「天女羽衣伝説」だとか。
天女羽衣伝説から想起するのは、松本清張『Dの複合』。それにこんな一節があった。

支那の伝承が、ここにはっきりと現われています。浦島譚では海の底の竜宮となっているが、支那では高嶺(たかね)、つまり蓬莱山のような場所になって、神仙譚となってるでしょう。学者によると、これが奈良朝ごろに日本に輸入され、換骨奪胎されて、山が海になったというんですが、その説を一応承服するとしても、支那の地形と日本のそれとの相違だけでなく、海洋に対する海人族の影響が強くみられるのです。早い話、支那にも羽衣の伝説はあるが、それがみんな山の中の出来事となっている。ところが、日本にはいってくると、海岸に変るから妙です……」(松本清張『Dの複合』新潮文庫,p.33)

これも実は興味ふかい問題なので、清張の文章に出て来る「学者」が誰のことなのかは分らないけれども、これに関しては後に、小松和彦も言及している。小松和彦『異界と日本人―絵物語の想像力』(角川撰書,2003)の「龍宮の伝説――『浦嶋明神縁起絵巻」(pp.75-89)などがそうである。
今日の記事は、実をいうとこれをネタにして書く積りであったのだが、あれやこれやと興味が移って、何が言いたいのか、結局よく分らなくなってしまった。浦嶋子とか天女羽衣伝説とかいった話題については、またの機会ということにして置く。

*1:いま気づいたのだが、「すごい」というのと「寸藝」とをかけていたのかな。

*2:上に引用した文章のうち例を挙げれば、(岩波文庫版と文学大系版では)「此處彼處より覗き垣間見惑ひあへり」「かひばみまどひあへり」という箇所に大きな相違がある。「かひばみ」は「かいまみ」に同じで、これはb-m子音交替の一例。