◆某先生が、我々にときおり話してくださる話柄に、「日本語は澄むと濁るで大違い」というのがある。ことば遊び関係の本を探しているときに、その例を幾つか見つけたので、以下にメモしておこう。
「なにしろ日本語というやつはデリケートでしてね、たとえば、ある音が澄むか濁るか、たったそれだけで意味がガラリと変ってしまうのです。いくつか例をあげましょう。
日本語は澄むと濁るで大ちがい
ハケに毛があり ハゲに毛がなし日本語は澄むと濁るで大ちがい
福(フク)は徳(トク)なり フグは毒(ドク)なり日本語は澄むと濁るで大ちがい
ハカにおまいり バカはおかえり日本語は澄むと濁るで大ちがい
鈴木(スズキ)は首相で ススキは植物日本語は澄むと濁るで大ちがい
ハハは美容院(ビヨウイン) パパは病院(ビョウイン)日本語は澄むと濁るで大ちがい
トキは金なり 都議(トギ)は人なり
日本語は澄むと濁るで大ちがい
タイヤは黒いが ダイヤはかたい日本語は澄むと濁るで大ちがい
逃げるハンニン 追うはバンニン日本語は澄むと濁るで大ちがい
四四(シシ)は十六 爺(ジジ)は六十
……ね、いかがです、じつに微妙でしょう。だから原稿がいるのです。そしてその原稿を注意深く読み上げることが必要にもなるのですよ」
(井上ひさし『にっぽん博物誌』朝日文庫1986,pp.254-56)
さあ、これはなんと呼んだらよいのだろうか。とりあえず、“澄むと濁るのちがいにて”と長ったらしい名前をつけておこう。古くからある。代表例は、
“世の中は澄むと濁るのちがいにて、刷毛に毛があり、禿に毛がなし”
わけもなくおかしい。
(中略)
私自身も文字通り愚考を重ねてみた。
“世の中は澄むと濁るのちがいにて、キスは甘いし、疵は痛いし”
“世の中は澄むと濁るのちがいにて、旗はヒラヒラ、肌はチラチラ”
“世の中は澄むと濁るのちがいにて、ためになる人、だめになる人”
“世の中は澄むと濁るのちがいにて、菓子は食いたし、餓死は食えない”
“世の中は澄むと濁るのちがいにて、墓は死んだら、馬鹿は死ななきゃ治らない”
濁点があるかないかで異なる単語を次々に思い浮かべて吟味するとき、もっとみごとな作品が生まれるにちがいない。刷毛と禿くらいヴィジュアルで、楽しい作品が……。
(阿刀田高『ことば遊びの楽しみ』岩波新書2006,pp.110-11)