富塚清

笹原宏之『国字の位相と展開』(三省堂)。これは前から欲しいと思っている本で、未だに買えずに居るのだが、三中信宏氏(某先生のお知り合いだそうです)が、こちらこちらこちらに、この目次よりも詳細なものを掲げてくださっていて、たいへんありがたい。笹原氏の過去の経歴(専門を途中で変えられたというところ)については、「豚の戰爭」で教えて頂いたことがある。あつかましくも、私に似ているなあ、と思ったのである。
◆某ブログにちょっとしたお礼のコメントを書き込みたいのだが、書き込めない。コメント欄が閉じられているからというわけではない。これまでそのコメント欄に誰かが書き込みをした形跡がないので、書きにくいのだ。ブログ主と直接お会いすることが出来るのは、もうすこし先のことになりそうだし……。かといって、こちらから態々会いにゆく、というほど大袈裟なことでもない。どうしたものか。
古書市で入手した富塚清『動力物語』(岩波新書)は、ふだんであれば手に取らないような類の本なのだが、山口昌男氏の『「挫折」の昭和史(上)』(岩波現代文庫)を読んでから、かなり気になっていたのである。山口氏は、『「知」の錬金術』でも富塚清に言及したことがあるのだそうだが、そちらは読んだことがないので、いま『「挫折」の昭和史(上)』から抜書きをしておくと……、「富塚は、技術史と時代のパラダイムが、スケープゴート産出による不安の解消のメカニズムと密接に結びついていることを、快いデタッチメント(距離を置く精神の技術)の筆づかいで明快に論じている」(p.94)、「科学史の人間・文化的環境をこれほど的確に表現したさりげない文章に出くわすことは滅多にない」(p.95)、「幾分大袈裟な言葉の選択が、著者の明快さとデタッチメントの故に、良質のユーモアをも生み出している」(p.96)、「私個人は、それほど長生きしたいとは思わぬが、仮りに長生きしても、このような生きの良い文章を書けるとは思えない」(同前)。…と、これらはいずれも『動力物語』についての評なのである。こんな文章を読んで、気にならないはずがない。
◆その『動力物語』は、「動力」ということばの、辞書(『新明解国語辞典』および『広辞苑』――何れも多分「第二版」を参照している――)における定義(富塚氏のいう「字義」)をただすところから始まっている。しかし、それが以下のように続くのだ。「こんど改めて日本機械学会編『機械工学便覧』を見たところ、「動力、仕事の時間に対する割合を動力(工率)という」とだけしか書いていない。これを見て私はがっかりした。これでは国語辞典の記載を笑えないのである」(p.7)。「笑えない」とあるが、これを読んで、私はつい笑ってしまった。この独特なユーモア感覚は何だろう。