野口英世神話

◆いわゆる「野口英世神話」には、海野弘『二十世紀』(文藝春秋*1 pp.98-103 が言及していて、中山茂『野口英世』(朝日新聞社)からの引用もある。ついでに言うと、「ロックフェラー財団が日本人野口をエクアドルに送ったのも、白人によるラテンアメリカ侵略というイメージをやわらげるためだったかもしれない」(p.103)という海野氏の見解もしめされている。
福岡伸一生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)は、それよりもずっと手きびしくて、「パスツールやコッホの業績は時の試練に耐えたが、野口の仕事はそうならなかった。数々の病原体の正体を突き止めたという野口の主張のほとんどは、今では間違ったものとしてまったく顧みられていない」(p.21)、「お札の肖像画にまで祭り上げられるというのは考えてみればとても奇妙なことである」(p.22)、とある。さらに、イザベル・R・プレセット“Noguchi and His Patrons”(Fairleigh Dickinson University Press1980、邦訳は中井久夫・枡矢好弘訳『野口英世星和書店1987)を紹介している。原題の“His Patrons”とはサイモン・フレスクナーのことで、同書は、「彼が権威あるパトロンとして野口の背後に存在したことが、追試や批判を封じていたのだと結論し」た(p.22)のだという。この記述からは、たとえばヤン・ヘンドリック・シェーンとバートラム・バトログとの関係を想起させる。しかしもちろん福岡氏は、公平のために、「当時、野口は見えようのないものを見ていたのだ」(p.23)とつけ加えることも忘れてはいない。
野口英世神話」が覆されたことに、わたしがはじめて衝撃をうけたのは、小学三年か四年の頃、偉人伝によってであった。それもまんがの(だから学習漫画もばかにできない)。そこには、酒におぼれる野口や金にきたない野口の姿が等身大に描かれていて、実に驚いたものだった。また、野口の末期の呟き「どうも僕にはわからない」が、いかにして発せられるに至ったかということを、子供にも分かるように、それなりに詳しく書いていたとおもう(手許に無いのが残念ではあるが)。
その後、福岡前掲書でも触れられていた『遠き落日』を、これは原作ではなくて映画で観て(たしかテレビ初放送だったから、十三、四年前か)、ふたたびショックをうけたのをおぼえている。
さらにその後、久しぶりで彼の名前を見たのが、『日録20世紀』(講談社)の記事によってであったとおもう。
『日録20世紀(1913=大正2年)』第二巻第三十号(講談社)は、大正二年のスピロヘータ発見を「『細菌発見競争』の終末を飾る偉大な業績であった」、とそれなりに高くは評価しながらも、野口の「栄光」ではなく「錯誤」に関する記述のほうにウエイトをおいている。中山茂の次の発言が心にのこる。「野口の登場は細菌発見競争には遅すぎ、二〇世紀のウイルスハントの時代には早すぎた。今から見れば、野口は細菌学の方法でウイルスを追いかけていたと言える」(p.5)。
◆「うんぬん(云々)かんぬん」の「かんぬん」は、「なにかに」「なんやか(ん)や」「なんでもか(ん)でも」などの類推から生じた語呂合わせのようなもの?
「うんぬんかんぬん」を、「うんぬん」と「かんぬん」とに分解するのは、耳では聞いたことがあったけれど、はじめて目にした(とおもう)。

ところが、そういうことをする人々はほかにいるのだ―動物愛護のうんぬん、社会復帰のかんぬん、バイロンのことさえも。(J.M.クッツェー 鴻巣友季子訳『恥辱』ハヤカワepi文庫,p.225)

「うんぬんくんぬん」は、まったく知らなかった。

*1:ちなみに『日本経済新聞』(2007.1.28付)では、書名が『二十世紀史』(仮題)となっている。