『冷血』を読む

◆風は強いが、ムシャクシャすることがあって外出。
古書のまちで、藤原相之助『東亞古俗考』(春陽選書)500円、太田全齋 藤井乙男解説『諺苑』(養徳社)300円、松本清張『遊古疑考』(新潮社)300円*1大野晋ほか『日本語を考える』(讀賣新聞社)210円、ベルティル・マルンベリ 大橋保夫訳『音声学』(白水社文庫クセジュ)100円。
◆(「解答」章を目前にして)読み止しのまま忘れていた、トルーマン・カポーティ 佐々田雅子訳『冷血』(新潮社)を読み始めると、これがおもしろくてやめられない。ついつい、ずるずると読み続ける。しなければならないことが、山ほどあるというのに。
大体の筋は、保坂和志『小説の自由』(新潮社)を読んで理解していた。保坂氏は、「ドン・カリヴァンからの手紙がペリーに届くところから魂の問題が徐々に浮上してくるようになっているのだから、やっぱり『冷血』は二十世紀の『罪と罰』なのかもしれない」(p.194)と書きながらも、だとすれば、「ラスコーリニコフは彼としての人生を生きることになるのに対して、ペリー・スミスの方はそうならなかった」(p.202)ことが、厄介な問題として浮上して来ると述べる。保坂氏によるとそれは、カポーティ自身がリアリティを保持するためにとった手段ではないかという。
『冷血』は『罪と罰』と比されることしばしばで、「二十世紀の『罪と罰』」とも喩えられる。たとえば小林信彦『地獄の読書録』(ちくま文庫)も、「ペリーの内面描写の美しさゆえに、「冷血」は、ただの“犯罪小説”からぬきん出ている。二十世紀の「罪と罰」の主人公には罪の意識がない。ペリーの悲劇性はそこにもある」(p.379)、と書いている。小林氏は、保坂氏とは違って、両者の相違を「罪の意識」の有無に見ている。あるいはそのことが、ラスコーリニコフとペリーの「その後」を決定的に分かったのかもしれないが。
ここに、「神保格」は「じんぼかく」か「じんぼういたる」か、という話が出て来るが、わたしはずっと、「じんぼうかく」ではないかと思っていた。
たとえば、金田一春彦ケヤキ横丁の住人』(東京書籍)にも、「佐久間鼎(かなえ)博士や、神保格(じんぼうかく)教授の本を読んでわからないところを私について確かめる」(pp.258-59)の如く、「じんぼうかく」とルビが振ってあるではないか。
ここでも、「じんぼかく」だ(「きんだいいこう」の「おんせいがく」にその名がみえる)。しかし、脚注135に「まえだとみよし」とあるべきところが、「まえだとみき」になっているので、正確性は期待できない。とおもったら、なんと、ここからして、漢字を誤っていたのですね(「祺」が「棋」)……。

*1:来月か再来月あたりに、河出書房新社が文庫化すると聞いた。初文庫化である。