註多きが故に…

本、註多きがゆえに尊からず―私のサミング・アップ

本、註多きがゆえに尊からず―私のサミング・アップ

■「装幀・和田誠」。顎十郎の話*1やら、田中明彦『新しい中世』の話やらが出て来てじつに愉しい内容だが(元シャーロッキアンとしては、“お約束”どおりホームズの話が出てくるのも嬉しい)、タイトル*2が分りにくい。余計なお世話かもしれないが、「あとがき」や帯にもあるように、著者の最初の案である「〈註のある本〉から〈註のない本〉へ」にしたほうがよかったのではないか、とおもった。
このタイトルが、例の「山高きが故に〜」という『実語教』の冒頭句を意識していることは確かだが*3山田俊雄氏がその「山高きが故に貴からず」について、後につづく「樹有るを以て貴しとす」を略してしまうからよく分らないことになるのだ、と苦言を呈したことがかつてあった(『ことば散策』)。そして、「山の貴とさはその高さにあるということが、確かにあるではないか。少くとも、山の高さが主たる関心事の根底である場合があるではないか」(だから下略すると真意が伝わらないのだ)、と書いていたのだが、同じく高橋氏も、「註多き」書物の存在価値を完全には否定しておらず、「本文より註のほうが面白い本もあるし、註だけで出来たような魅力的な本もある」(p.281)、とは書いている。しかし、ここは若干皮肉にも聞こえる。
また、タイトルの「註」字について。
これは私もよく迷う用字なのである。つまり、「注釈」の義で「註」字を使うべきか、「注」字を使うべきか。
長澤規矩也編著『図書学辞典』(汲古書院)には、「注とは、そそぐ、水をかけて、固い地面をやわらかにするように、難しい本文の意味を易しくすること。故に『注』字が正しい。『註』はその代用字。当用漢字には『註』が入っていないので、わざわざ『註』を使う必要は全くない」(p.102)とあり、これを読んだ向井敏氏が、「学者や評論家などが気取って『註』字を使っているのを見かけたりすると、つい口笛を吹いてしまったりする」(『読書遊記』講談社,p.26)と書いていたこともあった。なお白川静氏は、「注釈」の「注」字を「属(つける)」義とする(『字統』)が、いずれにせよ、「注」が古く、「註」は後の表記としている。
こちらには、「『註』が正しいやう」だとあるが(ところで「注力」は新聞由来語なのではないか?)、こちらには、「本来『注』字が正しかったところ,宋学者が『註』字を用いた」とあり、「宋学者」云々というのは典拠が知りたいものの、「註」のほうが新しいということで間違いなさそうである。
しかし私には、「注記」などの熟語を「註記」と書きたくなる妙なコダワリがあって、それとの整合性のために他の箇所も「註」とすることがある*4
こちらでは、「自分で論文を書くときは、その論文の脚注を示すときは『注』、他の文献の脚注を示すときは『註』、と使い分けています(例:塩野・前掲注(1)○○頁註(1))」と書いている人もあるが、他にどのようなコダワリがあるか、知りたいものである。
べつに、最初から「註」の話をしたかったわけではない。勢いにまかせて書いているうちに、こうなってしまっただけである。

*1:ただし、その項で、獅子文六の作品はすでに色あせてしまっている、というような書き方がなされているのは、ちょっと悲しい。

*2:副題は、最近新訳が出たサマセット・モームの回想記に由来する。かつては『要約すると』の訳題で知られていた。

*3:「尊からず」が「とうとからず」なのか「たっとからず」なのかは、奥付等を見ても分らない。

*4:「気取って」というよりも、言偏なのでなんとなく使いたくなる、ということがあるのかもしれない。