人生劇場

 古典は読まれざる名作である、ということを最初に言ったのは誰だろうか。マーク・トウェインが、「古典/みんな/ほめる/だけで/読みは/しない/ご本」(大久保博編訳『ちょっと面白い話』旺文社文庫,p.6)と書いており*1、これなどはその古い例かとおもわれる。
 古典とよぶには新しすぎるかもしれないけれども、尾崎士郎の『人生劇場』も、「読まれざる古典」に数えてよいとおもう(現在では、五木寛之青春の門』のほうがむしろ有名?)。
 もちろん私も読んだことはなくて、ずっと以前に、深夜映画で深作欣二佐藤純彌中島貞夫『人生劇場』(1983)を一度観たくらい。しかも内容は殆ど記憶に残っていない(森下愛子が可愛かった)。そういえば、沢島忠の『人生劇場 飛車角』も、全篇とおしてではないがサンテレビか何かで観たことがあったのだった。これらを含めて、『人生劇場』はなんと十数回も映画化されている。しかし、何れも原作のほんの一部しか下敷きにしていない。一巻の映像に収めるには、あまりにも厖大だからだ。原作の筋にそって映画化するとなれば、『この世の花』(全十本)以上の大作になることは間違いない。
 新潮文庫版は、全部で十一冊も出ている。鈴木邦男さんは、これらを全て読んだのだそうで、ここに、「探し続けて四十年」(!)と書いているし、それ以前にも、ここで書いている。特に後者の文章は、こないだ読んだ『鈴木邦男の読書術―言論派「右」翼の原点』(彩流社)に、ほぼそのままの形で収められている(pp.120-37)。「離想篇」という誤記(正しくは「離愁篇」。もと「遠征篇」)もそのままだ。「琴瑟(しんしつ)相和す」(p.131)というルビの誤りもあるが、これは編集者のミスだろうか。
 とまれ鈴木氏は、『人生劇場』新潮文庫版(全十一冊)を「大枚をはたいて」(p.123)購入されたのだとかで、必要に迫られて探すとなると、けっこう大変なことになるのかも知れない*2。私は、読む気はさらさらなかったのに、このうちの八冊を、三年前の三月二十日にまとめて500円(正確には一割引きで450円)で購入している。購ったのは、「青春篇(上・下)」「愛欲篇(上・下)」「風雲篇(上・下)」「離愁篇」「夢現篇」の八冊で、あとは「残侠篇(上・下)」「望郷篇」を残すだけになったのだが、未だに買わずにいる。「残侠篇(上・下)」は古本市で一冊100円で出ているのを何度か見かけたし、「望郷篇」も見たことがあるのだが、もともと読む気がなかったし、そもそもどの巻を持っているか確認することさえ怠っていたので、買わないままでいた。
 しかし、新潮文庫版の十一冊が『人生劇場』の全てではないようなのだ。この十一巻でいったん完結した後、「蕩子篇」、それから『新・人生劇場』(星河篇・狂瀾編*3)と出ていて、これらは文庫化されていないらしい。もっとも、『人生劇場』と『新人生劇場』との間には「何の有機的関係もなければ脈絡もない」、と尾崎はことわっているという。のちに『新人生劇場』を入手した鈴木氏が引用している。しかも鈴木氏は、「あれ!『人生劇場』よりも面白いじゃないか、と思った」と書いているし、『新』のほうはまるで『姿三四郎』のようだとも書いている。これはますます気になってくるではないか。

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 よしだまさしさんが「青春篇」を読まれたそうで、最近の「大丈夫日記」(『ガラクタ風雲』)に、「それほど面白くはなかった」「物語は行き当たりばったりで書かれているといった印象で、途中で伏線をはるというような工夫はほとんどない」と読後の感想を書いておられる(五月十七日)。それを拝読して、通読はちょっとやめておこうかという気にもなったのだが、出来れば『新』のほうだけでも読んでみようかな、と考えているところである。

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 尾崎といえば、以前古本市で買った尾崎士郎『醉中一家言』(講談社ミリオン・ブックス)を、おもしろく読んだことがある。『人生劇場』に関する記述もちらほらと見受けられる。これは傑作だった。大正〜昭和期の文壇に興味のある人ならおもしろく読めるのではないかとおもう。
 『資本論』の訳文をめぐって展開された高畠素之と生田長江との激しい論争も、この本でくわしいことを知った。
 この事件については、桶谷秀昭の名著『昭和精神史』(文春文庫)で読んだのが確か最初であったが(pp.15-16)、尾崎の文章は、さらにゴシップ的な興味を満足させるものであった。せっかくなので、ちょっと引いてみよう。

高畠素之は、かういふ論争の名人で、私が上京するとまもなく、生田長江が彼の資本論の向うを張つて緑葉社から英訳「資本論」を刊行すると、資本論の翻訳に、ほとんど畢生の情熱を傾けてゐた高畠は、長江の「資本論」を仔細に点検してから読売新聞に、「誤訳だらけの資本論」といふ一文を草して長江に喰つてかかつた。長江は経済学の専門家ではないが、一流の批評家をもつて自他ともにゆるしてゐるだけに正面からこれをうけて立ち、「蟷螂の斧」といふ題で、高畠の攻撃に答へた。癇癖のつよい高畠は此処でいよいよいきり立つた。彼はすぐ、「鎧袖一触」といふ題をふりかざして、前よりもするどく長江に迫つた。専門外の仕事であるから、長江も、このへんで妥協するのが至当であると考へたらしく、半ば高畠の憤激を緩和しながら、世間体をつくろふ目的で「二度び高畠君に答ふ」といふ、一見紳士的な文章をもつて酬いると、それが高畠を一層激怒させる結果になり、「生田長江癩病資本論」といふ、悪意と憎念にみちた文章をもつてこれに応酬した。論争も此処までくると、もはや短刀やピストルの比ではない。彼の下した最後の一撃は完全に止めを刺したかたちになつた。長江の病勢はやうやく膏肓に入つて、ほとんど訪客を絶つてゐるときだつたので、この一文は、彼の「資本論」を第一冊で中絶しただけではなく、一切の執筆を絶たねばならぬやうな結果になつてしまつた。(『醉中一家言』pp.83-84)

 とは云うものの、桶谷前掲書によれば、長江はその後ニーチェ全集の翻訳に打ちこんだり、『超近代派宣言』を出したりしたそうだから、「一切の執筆を絶たねばならぬやうな結果になつ」た、というのは、ちと言いすぎのようだ。
 ところで「ミリオン・ブックス」といえば、日本語関係の本もいくつか入っているので有名(?)だ。三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』、『日本語はどういう言語か』ももともとはこのシリーズの一冊だったし*4岩淵悦太郎の『現代の言葉』も入っていた*5。NHK編の『言葉の魔術』というのもあったらしい。
 私の持っているミリオン・ブックスは、尾崎の本のほかに、平井昌夫『新版・魅力のある会話―話しことばの研究室―』、長谷川春子『大ぶろしき』くらい。他にも何か持っていたかもしれない。

*1:ただ、直接にはどの本、ないし手紙等でこう書いたのかがわからない。引用元を明示してくれると有難いのだが……。

*2:以前必要に迫られて、小栗虫太郎の或る本をネット古書肆にて2500円で購入したら、その数日後、たまたま立寄った古本屋に500円で出ていた(しかも、届いたものよりも状態が良かった)のを見かけた。このようなことはザラにある。

*3:篇?

*4:前者はのちに現代新書に入り、後者は改訂増補されて学術文庫に入った。

*5:これも後に改訂されて学術文庫に入った(『日本語を考える』に改題)。学術文庫版の解説では、大石初太郎が「ミリオン・ブックスには多少低俗な内容のものが含まれていたが、学術文庫は、既刊・続刊の目録を一覧したところ、その名にふさわしく高度の教養書をそろえている。本書は内容からいって、今度のほうが所を得たといえる」(p.221)、と書いている。