五年前のレポート

 今週号の「週刊新潮」で、渡部昇一氏の「書痴魂」が炸裂している(pp.143-45)。漱石「猫」の初版本、『種の起源』の初版本、自動空調の書斎、ロスチャイルド一族の訪問……。確かにすごいとはおもうのだけれど、自分にはまったく縁のない世界だな、と考える。
 しかし、愛書家に関する文章はこのんで読む。挙げるときりがないのだけれど、いまでも忘れがたいのは、辰野隆の「書狼書豚」(『忘れ得ぬ人々』所収)、森銑三の「S先生と書物」(『明治人物夜話』所収)。
 これは創作だが、最近読んでとくに印象に残ったのは、生田耕作訳のユザンヌ『シジスモンの遺産』。生田はこのテの小説をたくさん訳しているが、実はまだ、ほとんど読んだことがない。

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 某先生が、尾上八郎『平安時代の草假名』(雄山閣,1926)を紹介された。その先生が参照されていたのは第三版(1930)年であったが、私蔵本は第九版(1942)である。
 もう五年ほど前のことになるが、この本に収められた古筆切をつかって、「の(字母は乃,以下省略にしたがう)」字の連綿にかんするレポートを書いたことがある。これまで公開したものではないし、今後べつのどこかでそうする予定もないので、梗概を示しておくことにしたい。
 古筆文献にみられる「の」字が上下の文字と連綿するか否かということは、これまでには文の「分節(articulation)」と関連づけて述べられることはあった。しかし、今野(2001)*1が指摘したように、「まず字のかたちの側に連綿に関わる『決定権』があると思われ」(p.46)、また、「連綿の切れ目が語の認識に作用していることは言うまでもないが、といって、いかなる時代のいかなる文献においても、例えば連綿が所謂『文節』にほぼ対応しているわけでは勿論ない」(p.303)、のである。
 ただその「字のかたち」というのも、「の」の字母、あるいはその形だけに着目するのではなくして、上下に来る字母の形に着目すべきではなかろうか。そこにこそ、連綿を引き起すいわば「相互作用」としての契機を見出すことができるのではないか。そのような観点からすると、『平安時代の草假名』が収める四十五の古筆切にあらわれる仮名「の」は、字母「乃」の原形を既にとどめておらず、全て現行の「の」とほぼ同じ字形に統一されているので、まことに都合がよいのであった。
 さて、まずは対象資料にざっと目をとおして、「仮言的命題(hypothetical proposition)」を立てたのである。具体的には、「『の』の上下に来る仮名の字母の形が連綿を許容しやすいものであれば二字は連綿を生ずることが多い」と、連綿の許容の度合いをさしあたり字形の側にのみ還元しておいたのだった。もしもこの命題から外れる例外が多ければ、命題そのものを「偽」としてしりぞければよいだけの話である。
 そのうえで資料を調査したわけであるが、あらかじめ考慮しておくべき点がいくつかある。第一に、「連綿」とはいちおう区別すべきものとしての「気脈」がある。これは、文字が視覚的には連続していないようにみえる場合でも、筆の運びからあるいは連綿と見なせるかもしれない、というものである。ただ、尾上著所収の古筆切では、このようなきわどい例は僅々二例にすぎなかったので、簡単に除外することができたのである。そして第二には、同一資料内に連綿する「の」が複数出現するばあい、それは個人の書き癖として、「一例」と見なす。しかしそれとは逆に、「の」が複数出現する資料でも、同条件下で連綿を生ぜしめるものとそうでないものとが混在する古筆切もみられたので(ただし古筆切の性質上、「複数」といっても、最大で一例ずつのものにとどまった)、かかる場合は、一資料あたり0.5ポイントずつ減ずることによって全体の均衡を保つようにしたのであった。
 以上のことをふまえて算出した結果によると、上下いずれに出現するかに拘らず、「の」と連綿しやすいのは、「し(之)」であることがわかった。さらに個別的には、(1)「の」の下に「あ(安)」が来る場合、両字は連綿しにくい(2)「の」の下に「か(可)」が来る場合、両字は連綿しにくい(3)「こ(己)」は、「の」の上に来る場合よりも、下に来る場合のほうが連綿しにくい(4)「み(美)」は、「の」の上に来る場合よりも、下に来る場合のほうが連綿しにくい……ということが判明したのだった(具体的な数値は省略)。というか、そういう結果が出たのである。
 またついでに言うと、犬飼(1982)*2は『萬葉集』の山上憶良歌を論じたくだりで、「長歌においては句末の『能』に対して句中の『乃』、反歌においては『乃』専用ということになる」(p.77)、「巻五前半のほかの長歌(万八〇〇、八〇四、八一三)について同じ手続きをとってみると、(中略)『能―能―能―能―乃―乃―乃―能―乃―乃―能―乃―乃―能―能―能』(万八〇四)(中略)など、数組の字母が交互に用いられたり偏在させられたりしていることがわかる」(p.78)と書いていたのだが、それが、平安期の書記資料にも適用できそうだということもわかった。具体的には、「との(能)もりの(乃)ともの(能)」、「まきもくの(乃)あたしの(能)」、「あきの(乃)くさきの(能)」、「えむま王官の(能)こかねの(乃)ふた」等のごとくである。
 某先生のお話を拝聴し、忘却の彼方にあったこの小文の存在をおもい出したので、ここに記録しておく。

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 ところで、「草仮名」は一般的に連濁を生じて「そうがな」となろうが、一方で「かたかな」は連濁しない(「平がな」は連濁を生ずる)。とりわけ和語(ないし和漢混成語)の場合、連濁は音韻論よりも形態論の側面から論じられる現象ではある。すなわち、連濁の例外となるものの解釈としては、アクセントの相違*3のみならず、「ライマンの法則」(つとに賀茂真淵本居宣長が似たようなことを言っているが)だの「枝分かれ構造」(佐藤大和氏など)だのが持ち出されて個別に論じられることになっている。
 しかし前から疑問なのは、「下」「舌」、「先」「咲き」(連用名詞形)などが連濁を生ずる場合、単に棲み分けを生じているだけなのではないか? ということ。つまり、「のきした」「さかした」などは濁らないが、「ねこじた」「まえじた」「あかじた」などは濁る(「あかした」は濁らない場合が多いか)。同様に、「いきさき」「めさき」「てさき」「へさき」などは濁らないが、「くるいざき」「ろくぶざき」などは濁る。とすれば、「さきざき」は例外となるが、これは「しもじも」「ひとびと」「さまざま」といった畳語とともに連濁とは別個に考えるべき現象なのかも知れない。このことについては、先学がどこかですでに言及しているのだろうか。これもおもい出したので、ついでに書いておく。

*1:今野真二(2001)『仮名表記論攷』清文堂出版

*2:犬飼隆(1982)「万葉仮名の文字法の歴史」(森岡健二編『講座日本語学5 現代語彙との史的対照』明治書院

*3:もっとも漢語であっても、「鼻音尾をもつもので上昇調アクセントの場合に生じやすい」、などと言われたりもする。