このあいだ、久しぶりで京都へ行った。その途次Y書店の平台で、シャルル・バイイの岩波文庫とE.H.ノーマンの『忘れられた思想家―安藤昌益のこと(上・下)』(岩波新書)とを見つけたので買ってきた。ノーマンの『クリオの顔』は岩波文庫版で面白く読んだのだが、『忘れられた思想家』は未読だった。
それで、暇をみつけては『忘れられた思想家』を読んでいるのだけれど、そうすると、どうしても青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』(中公文庫)を読みかえさないわけにはゆかなくなった*1。とはいっても、無論この大冊を隅から隅まで読んだわけではなくて、まだ読んでいないところや、すでに読んだところをつまみ読みしているという次第である。
狩野については、小林勇のいくつかのエセーや高島俊男先生の「回や其の楽を改めず」(『本が好き、悪口言うのはもっと好き』所収)などでも読んだことがあり、特に後者は幾度か読みかえしている。
さて高島先生は、その文章の末尾(「追記」の直前)で、
青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』(昭和四十九年明治書院)は、大冊だが甚だ不整理で伝記というより長編というところ。しかし随所に小字で組まれた文献引用部分は価値がある。近年中公文庫に収める際「亨吉と性」を削除した。(文春文庫版p.292)
と書いておられる。
青江著が不整理であること(および、何かしら難癖をつける*2こと)は松岡正剛氏もどこかに書いておられたし、文庫版で「亨吉と性」が削除されたということは小谷野敦先生もどこかで言及されていたと記憶する。
また、上の引用文中の「長編」ということばは、「長篇小説」などの「長篇」とは意味が違う、というか、高島先生自身が明確に使い分けていることを書いておられたはず……と、『お言葉ですが…』シリーズをぱらぱら繰ってみたが、結局わからないままだった。
しかし、高島俊男『ほめそやしたりクサしたり』(大和書房)を読んでいて、それが、このなかに収められた文章(「温公殺すに刃物は要らぬ」)であることがわかった。そこで先生は、「資料のとじこみみたいなもの」という義で「長編」を用いたことを明らかにしている(pp.65-66)。
ところでこの『ほめそやしたりクサしたり』、それから『寝言も本のはなし』や『本が好き…』は、いずれも大和書房から出たエセー集だが、最初に出た『本が好き…』以外は文庫化されていない。しかも残念なことに版元品切である。
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