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2月6日、益田勝実先生が亡くなられていたらしい。全く存じ上げなかった。
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神保町のオタさんも書いておられた、『文藝春秋』4月号の南陀楼綾繁「全1000作品 清張検定」。発売直後に挑戦。結果は88点。「清張好き」の名(自称)に恥じない成績であるのかどうかは、他の方々の御判断を仰ぐよりほかない。
『文藝春秋』は、四箇月に一度くらいの割合で買っているが、読みでがあって、編集面でもバランスのとれた雑誌だといつもおもう。時間をかけて、じっくり読むことにしている。
たとえばわたしの場合、4月号ならまずは清張特集から読みはじめ、次に高島俊男先生による『中国は崩壊しない』評を読んだあと、清水美和「『国進民退』一人勝ち中国の矛盾」を読み、そのあと唐家璇の独占インタビューを読む、というのと、松田賢弥と赤坂太郎の小沢関連記事を読み、与謝野馨の「檄文」を読み、井上久男「世襲トヨタ『覇者の誤算』」→入交昭一郎・佐藤正明「それでも日本車の信頼は揺るがない」→伊藤忠会長の記事という順で読むのと、ふたつのルートがあって、中国躍進の話題が、ここでうまく交差することになる。
雑誌のなかで、日本で最も適確な標準を示しつづけてきたのは、なんといっても「文藝春秋」でしょうね。大正十二年に菊池寛が創刊した。人によっては好き嫌いはあるだろうけれど、編集的視点でいえば、まことにすばらしい平均力・バランス・器量を維持しています。エディトリアル・フォーマットがしっかりしていて、いまなお不変です。(『多読術』ちくまプリマー新書,p.66)
とは、松岡正剛さんの言。
松岡正剛『多読術』でおもい出した。この本に、「京都に西田幾多郎や内藤湖南を招聘したのも、この人(狩野亨吉―引用者)です」(p.174)とあったが、西田の方は狩野の招聘によって京都に来たのだっけ? と若干の疑問。それで、ちょいと検索してみると、こちらでは、狩野は西田や内藤を皇太子の教育掛に「推薦した」、ということになっている。
青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』は、部分的に読んだだけで手許にないのだが、たとえば祖田浩一編『日本奇人・稀人事典』(東京堂出版)では、
明治三九年京大文科大学開設にあたって(狩野は―引用者)初代学長になり、民間人起用に文部官僚と衝突しながら、東大とは異なった自由な学風を作った。湖南や露伴の他に、実現はしなかったが、夏目漱石、高山樗牛、西田幾多郎も内定していたという。(p.136)
となっている。西田が京大に来たのは明治四十三年*1、しかし狩野はその頃、すでに職を辞していたのではなかったか。
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