路線バスで読む梅崎春生

 うろ覚えだが、草森紳一氏が、東京―大阪間の新幹線の車内で読むのに好適な本として松本清張の短篇集を挙げていた。ほどよい長さのため車中読書にうってつけで、しかもやみつきになる、というわけで、その状況を“手が伸びることさながらバターピーナッツのごとし”、といった面白い表現でたとえていたと記憶する。
 交通機関と読書との関係といえば、確かに、乗り物や路程の違いに応じて本の分量や冊数、またはジャンルを意識的に変えるのはこれまでによくあることだったが、いわゆる「文章のテンポやリズム」も勘案すべき要素のひとつだと感じたのは、先日、路線バスに小一時間揺られながら、梅崎春生荻原魚雷編『怠惰の美徳』(中公文庫2018)を愉しく読んだからだ。
 同書所収の「チョウチンアンコウについて」「衰頽からの脱出」、それから、編者の荻原氏が「この小説を読み終えた途端、全集を衝動買いした。心を摑まれた。自分のための文学だとおもった」(解説p.301)という「寝ぐせ」あたりは、沖積舎の作品集や別の文庫本で読んだことはあったけれど、大半は今回が初読だった。各篇が長すぎず、かと云って短すぎることもなく、時折クスリ、ないしはハッとさせられながら、一篇一篇読み了えるたび、窓外の景色に目をやっていた(その日はまた天気もすこぶる良かった)。文章のテンポやリズムがバスの動きと絶妙に合って、久しぶりで、純粋に愉しく餘裕のある読書をしたという感触が残った。
 ところで、この最初の方に、「憂鬱な青春」(pp.20-33)なるエセーが収めてある。そこに次のような記述がみえる。

 それで昭和七年、首尾よく第五高等学校文科に入学が許可された。試験はあまり出来なかったから、すれすれで入学したに違いない。そこで詩を書き始めた。同級に霜多正次などがいて、それらの刺戟もあったのだろう。当時の五高には「竜南」という雑誌が年三回発行され、文芸部委員には三年生に中井正文や土井寛之、二年生に河北倫明や斯波四郎がいて、私がせっせと詩を投稿するけれど、なかなか載せて貰えない。上出来な詩じゃなかったからだろうと思う。
 二年生になって、やっと掲載されるようになった。そして文芸部の委員になることが出来た。委員になれば、おおむねお手盛りといった形で、毎号掲載ということになる。(略)
 落第する前のクラスはあかるくて、遊び好きの連中が多かったが、あとのクラスは何だか暗くて、あまり私にはなじめなかった。落第したひがみもあったのかも知れぬ。木下順二などがいたが、彼はその頃秀才で(今も秀才だろうが)文学に関心は持っていないように見えた。(pp.22-24)

 木下順二も、梅崎と同じく五高から東京帝大に進んでいる。それで思い出したのだが、木下も自らの半生記で当時の梅崎について書いていた。梅崎の別の貌を表しているようでもあるので、やや長くなるが以下に引く。

 五高三年の秋、私は突然一篇の私小説を書いて、文芸部委員梅崎春生に提出した。
 梅崎は私が二年に上るとき落第して来て私と同級になったのだが、なにしろその頃の私は前述の仕儀で学業格別精励のほうだったから、初めて同級になったあの駘蕩たる詩人と、いきなり仲よくなるということもなかった。それが三年になって、教室で机が並んだりしたこともあってか、急にわりに親しくなった。当時の英語の教科書の余白に、授業中に梅崎がよこした漢詩(?)が写してある。私の名を詠みこんだ五言絶句というつもりだろう。木花離堂前/下草連野辺/順風吹不尽/二月漸纒綿/梅生 というのである。そして私は早速その時間中にお返しをしたらしく、余白に書き散らしてある苦吟のあとを辿ってみるとこういうふうになる。梅花漸数苞/崎陽二月朝/春日雪未消/生動万物更/木生。(略)
 校友会誌の合評会に出向いたりしているところを見ると、いま思いだすほど私も創作活動に冷淡ではなかったのかという気がしないでもないけれど、なにしろ自分が書くなどということはわれながら全く唐突であって、自分にとって小さからざる事件でそれはあったのだが、梅崎委員はいとも簡単に、「大したもんじゃなかね」という感想と一所にその原稿を返してよこした。(略)
 ところで年を越した一九三六年、ということは五高を卒業する年の一月二十九日水曜日と曜日まで私は書きつけているが、またまた英語の授業中に梅崎がそっとよこした漢詩(?)が、教科書の余白に写してある。今度は題がついていていわく「勧転志詩」――白面美衣青春行/肥馬銀鞭思亦遠/可憐此人誤針路/老夫無職乞路傍/梅生。――肥馬銀鞭というのは私が馬術部のキャプテンをしていたからだろうが、どうもこれは、私のあの一篇を読んだ梅崎が、私に転志を勧告した詩であるとおぼしいけれども、何で年を越した今頃になってこんなものをよこしたのだか分らない。授業が終ったあと、この詩について梅崎と何か話をしたにきまっているがそれは忘れた。私はきっと、おれは創作なんて考えてもおらん。学者になるつもりだけん、つまり学校の教師になるつもりだけん、老夫無職ということにはまあならんで済むだろう、というようなことをいったのだったろう。とにかく、梅崎から二度も漢詩をもらっていたことなど、今度何とはなしに昔の教科書をひろげてみるまで、すべてまるきり忘れていた。
 別のことだが、(略)大学時代、あるいはその少しあとだったか、いや、大分あとのことになるはずだ、太平洋戦争戦時下の、もう喫茶店で甘いものが飲めなくなっていた頃の殺風景な本郷通り、東大正門前の郁文堂のところで、実に久しぶりに梅崎と会った時のことが、戦後になって時おり会うようになってからのことよりも忘れられない。ばさばさの髪に、そろそろ寒い時節だったが素足の下駄ばきで、立ったままちょっと何か話すと、黒いマントの裾をひるがえして三丁目のほうへ走って行った。肩の線がやわらかく、しかしなにかやり切れない表情が背中にあった。その後ろ姿から眼が離せないで見送った自分を、今でも覚えている。(木下順二『本郷』講談社文芸文庫1988:146-50←講談社1983)

 なお、この『本郷』はコミガレで拾ったものだが、その時分は、「五高出身者」という要素がアンテナに引っかかったから買ったわけではなく、坪内祐三氏の次の記述に触発されて購ったのであった。

 数カ月前に私は、神田の淡路町交差点近くにある新古本屋の百円均一コーナーで木下順二の『本郷』(講談社文芸文庫)を見つけた。元版で既に通読していたけれど、あまりにも安かったので購入してしまったのである。帰りの地下鉄で読み進めて行った。すると、初読の時には見落していたのだが(いや、正確に書けば、当時はその固有名詞に反応出来なかっただけなのだが)、木下順二の母方の伯父に国文学者の佐々醒雪がいることを知った。そして帰宅後、私は、『忘れ得ぬ国文学者たち』の「佐々醒雪博士」の章を開いた。(坪内祐三「解説」、伊藤正雄『新版 忘れ得ぬ国文学者たち―并、憶い出の明治大正―』右文書院2001:400)

 ところで『本郷』は、「わるごろ(悪五郎)」「おンなはらん」等々、熊本方言について書かれた箇所が特に印象に残っていて、なかにこういう一節もあった。

 (熊本の白川小学校では―引用者)発音と言葉づかいで毎日のようにやられた。今はあんまりはやらないらしい大声の朗読というよい習慣があの頃の小学校にはあって、こっちはそいつが得意のつもりだから手を挙げて当てられて立ち上って読みだすと、皆が笑うのである。「今日ぼくの兄さんが」――この“が”の鼻濁音がまずおかしいというわけだ。やがて休み時間になって運動場へ出ると、朝礼で校長先生が立つ台の上から一人が先生の調子で「おい木下くん、きみが“が”は鼻っぽんぞ」(ジフィリスで鼻の障子がなくなって息が漏れるごとくである、ということらしい)、そういって冷かされている私のそれこそ鼻の先を、「ンーンガアー」と鼻濁音の口真似をしながら飛行機の格好に両手をひろげた奴が通過して行くや否や、反対方向からたちまち一機「ンーンガアー」と飛んでくる。それからまた一機。(木下同前p.116)

 九州が非‐鼻濁音地域だというのはよく知られており、長崎・諫早出身の野呂邦暢も小説中で触れていたことがある。

(盲目のわが子)といったとき、がの音は鼻声音になっていた。九州人はガ行の音をやわらかな鼻声音で発音できない。九州人である中尾昭介も上京して二十年以上になるけれど、まだきれいなガ行の音を口にすることができないでいる。(「ある殺人」『野呂邦暢小説集成6―猟銃・愛についてのデッサン』文遊社2016:22)

 ちなみに、本好きならご存じのことだろうが、「野呂邦暢」は本名ではなく(本名は納所〈のうしょ〉邦暢)、梅崎の『ボロ家の春秋』の登場人物名から借りたペンネームである。
 交通機関と読書との関係について述べる積りが、今回も横道に逸れてしまった。
 これもまた、“読書の醍醐味”なのかも知れない。

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 梅崎というと、『桜島』についてここで少しだけ触れたことが有る。

本郷 (講談社文芸文庫)

本郷 (講談社文芸文庫)

新版 忘れ得ぬ国文学者たち―并、憶い出の明治大正

新版 忘れ得ぬ国文学者たち―并、憶い出の明治大正